2026年6月15日(月)
戦後の新制大学における人材育成
関口晃一氏が1938年(昭和13年)に東京高等師範学校を受験した際に出題された入学試験問題は,「正解」がある訳でもなく,実におおらかな入試問題だったと思う。採点者の研究に対する洞察力の高さ(個人的嗜好とは違う)が強く反映されるため,結果として採点者同士のばらつきが大きくなる。結果を知ることができたら,一所懸命書いたのに自分の得点はなぜこんなに低いのかと,いぶかしく思う学生もいたのではなかろうか?
今は受験する学生数が飛躍的に増加し,受験戦争も過熱している。関口晃一氏が受験した際の入試問題は,大学入試共通テストに慣れた高等学校教諭や予備校講師からは大変なお叱りを受ける。文部科学省の中にも同調する者が少なからずいるだろう。攻撃してくる者は,正解がないと公平性が失われると主張するのだろうが,入学試験で何を「公平性」とみなすかは,出題者によって異なる。入学試験の公平性については議論が必要である。
「正解」のない入試問題は,採点者側にも問題を引き起こす。一般に分子生物学者や生理学者は視野が狭く,多様な解答に対応できない欠点がある。だから採点者を誰にするかは,大きな問題である。私はいつも農学部の教員を指名した。分子生物学者や生理学者が採点委員に加わると,試験終了後に採点が終わる真夜中まで文句を
言われ続ける。「もういい加減にしてくれ」と思った。
大学入試共通テストは,高等学校の履修科目に関する基礎知識を診るためにあってもよいと思う。共通テストは正解があるので出題者の個性は出しにくい。(現に,試験問題を見ても誰が出題したか想像できない。)一方,個別試験では,出題者と採点者の両方で個性が出てもよいと思う。出題者や採点者の個性があるからこそ,大学における研究の特色が現れると思う。一律な試験と採点ばかりしていたのでは,学問分野の多様性が損なわれる。どこの大学に入学しても生物学科では分子生物学しかやっていないという状態では,日本の自然科学研究は世界に大きく後れを取る。
結論としては,自分の答案が良い評価を得られない大学は入学しない方が賢明である。そんな大学(例えば東京大学)に入学できても,好きな研究はできないと言われ,修士課程や博士課程においてつまらない研究を強制される。(見かけは自由意志として承諾させられる。)結局ドロップアウトになるのが関の山だろう。
でなければ,巧妙な嫌がらせの山を我慢して乗り越えるか?学問の世界にも視野の狭い学者が多く,個性が発揮できない。

図1.1971年の石垣島(場所は不明)。私が初めて西表島に行ったころ(1971年春と1972年夏)には,石垣島や西表島では,水田を耕すのに水牛が使われていた。水牛は,暇な時期には湿地帯に縄でつながれていた。私が近づくとメスは逃げたが,オスは逆に追いかけてきた。水牛に10mほど追いかけられて,怖かった思い出がある。トラクターが導入されてから,写真のような光景はもう見られなくなってしまった。西表島の水牛は由布島に引き取られて,現在(2026)では重要な観光資源として復活している。水牛が生きながらえるのは,本当に嬉しいことである。水牛は飼い主にも良くなつくと思う。沖縄公文書館の資料から。

図2.石垣島南部の地図(2026年)。那覇港から石垣港に着いたのは,1971年3月11日の昼頃だったと思う。3月10日の晩は,海にはすごい規模のうねりが発生した。石垣港には,3月11日の昼頃だったと思う。西表行きの船(第三幸八丸)は3月12日発だったので,11日は石垣島のユースホステルに一泊した。11日の午後には時間に余裕ができたので,タクシーでバンナ岳入口の三叉路まで行って昆虫採集をした。タクシーは基本料金が15セント(54円)だったと思う。片道200円ぐらいだったかもしれない。1971年には,沖縄のタクシーはすべてひと時代(10年)前の型だった。今(2026)では新石垣空港ができており,石垣港の桟橋(英語はwharfだろうか?)までバスに乗れば30分で着く。もちろん,バンナ岳に行く三叉路に行ってしばらく採集する,という余裕はない。宮良川の河口(estuary)にはヤエヤマヒルギの群落があり,干潮時には4~5種類のシオマネキを見ることができる。しかし,河口は富栄養化が進行し,厚いヘドロの層が歩行を妨げる。

図3.1971年3月11日午後に昆虫採集を行った三叉路。現在(2026)は,県道208号ができており,名蔵まで短時間で行くことができる。1971年当時は,208号(石垣浅田線と言うらしい)はなく,2台の車が走っているところは,森(亜熱帯林)だったと思う。208号から左に入小道があり,道なりに行けば石垣島天文台に着く。県道208号が完成する前は,この小道がバンナ岳のふもとを通って名蔵に行く道路だったのだろう。1971年3月11日には,石垣島天文台に行く左側の小道で昆虫採集をしたと思う。道の右側には田んぼがあった記憶がある。その田んぼ(写真中央)は,現在(2026)でも残っている。田んぼの畔を走っていて,勢い余って田んぼに足を突っ込んでしまった記憶もある。なお,この場所から50m手前で右折すれば,バンナ岳に行ける。リュウキュウアサギマダラ,ナミエシロチョウ,セセリチョウ,タイワンキチョウ,タテハモドキ,カラスアゲハ,イシガケチョウ,ジャコウアゲハ,アオスジアゲハなどが採集できた。ツマベニチョウ,リュウキュウムラサキ,シロオビヒカゲ,ベニモンアゲハ,アオタテハモドキ,イワカワシジミ,コノハチョウはここでは採集できなかった。現在(2026)でも,石垣島天文台に行く小道では当時(1971)と変わらぬ種類が採集できると思う。家族で行けば,2時間から3時間飽きない採集を楽しむことができる。この場所での昆虫採集は禁止されていない。

図4.石垣島で初めて採集したリュウキュウアサギマダラ。この個体は2024年に鳩間島で撮影された。昆虫採集はもう長らくやっていないが,写真は続けている。

図5.離島航路の桟橋。1971年にひめゆり丸が石垣港に着いた時には,古い桟橋に接岸した。現在も離島行きの貨客船や漁船は古い桟橋に係留されていると思う。離島(竹富島,黒島,波照間島,小浜島,西表島,鳩間島)に行く高速船は,新しく作られた桟橋から出港する。与那国島にはフェリー「よなぐに」(498トン)が就航しており,「よなぐに」も新しい桟橋から出港する。離島行きの高速船とは反対側の桟橋に係留されているが,この船にはまだ乗ったことがない。バスは離島ターミナルの入口で停車するので,荷物がたくさんあってもそんなに苦労せずに高速船に乗ることができる。離島行きの高速船に乗るとすぐ右手に海上保安庁の巡視船が停泊している。現在(2025)では常時5~6隻が待機している。海上保安庁の巡視船の任務は,主には尖閣諸島の監視だろう。離島航路は石垣港(24.34°N, 124.16°E)の西側に伸びているが,尖閣諸島(25.74°N, 123.55°E)は北北東150 kmに位置している。・・・なので,高速船と巡視船が近くですれ違うことはない。巡視船の巡航速度はよく知らないが,25 km/h とすれば,尖閣諸島までは6時間ぐらいかかるだろう。漁船だと15 km/hぐらいの速度だろうから,石垣港からは10時間ぐらいはかかる。しかも東シナ海は荒れるので,巡視船にしても漁船にしても,初めて乗る者は,航行中は激しい船酔いで七転八倒の苦しみを味わうだろう。

図6.石垣港に係留されている巡視船。写真に写っているのは4隻。2025年7月2日に西表島に行った時には,左から「やえやま」,「あぐに」,「たけとみ」が見えた。後方にも何隻かいたと思うが,高速船からは確認できなかった。「たけとみ」は,石垣島沿岸を航行中に浅瀬に乗り上げてスクリューが壊れたようだ。巡視船は軍艦とは違って,割と浅いところでも運航できる。座礁したとなると,強風のために船が海岸近くに流されたのだろうか?あるいは海図を読み間違えたか?
1971年(昭和46年)3月12日,初めて西表島へ
3月10日の夜は波が高く,ひめゆり丸の操舵室の前のデッキまで大波が上がってきたが,3月11日の波は穏やかだったと思う。ひめゆり丸は昼近くに石垣港に着き,その晩は市内のユースホステルに泊まったと思う。3月11日の午後は,2時間ぐらいだが,バンナ岳に向かう三叉路で昆虫採集を行った。その時に採集したリュウキュウアサギマダラ,タイワンキチョウ,ミカドアゲハ,カラスアゲハ,イシガケチョウ,リュウキュウミスジなどは,今でも標本箱の中に収められている。
西表島に渡ったのは翌日の3月12日だったと思う。乗った船は第三幸八丸。1トンあるかないかの小さい船だった。うねりは高く,波にもまれて船が波の上にある時には島々が一望できたが,波の間に入ると押し寄せる波の高さは5mにも感じた。
第三幸八丸は,島の北側を回って白浜港に向かっていたが,満潮時に近かったこともあって,干立(ほしだて)の集落の浜で船を降りることができた。石垣港からは3時間以上かかったと思う。今は石垣港から上原港までは,高速船に乗れば45分程度で着く。ただし,島の北側は海が荒れやすい。波が高い日には,北まわりは欠航になる。
西表島では3月12日から21日ごろまで干立の公民館に滞在した。夜になると公民館の中には,ハマダラカに混じってたくさんのヒメカミキリが飛来した。1971年だとマラリアは撲滅されていたが,マラリア原虫を媒介するハマダラカの数は半端ないほど多かった。ハマダラカは,今は個体数が激減している。
西表島では,まず集落内で昆虫採集をした。まず目
についたのは,キオビエダシャク(シャクガの成虫)であった。公民館の庭を右に左にたくさん飛びかっていた。ベニイカリモンガも一匹採集できた。集落のはずれにはシロオビヒカゲが見られた。集落内でいちばん多かったのは,タイワンキチョウとウラナミシロチョウで,次に多かったのはリュウキュウアサギマダラだった。リュウキュウカラスアゲハやリュウキュウクロアゲハもいたと思うが,記憶に残っていない。アゲハチョウとナガサキアゲハは見かけなかったように思う。
次の日から晴れた日には海岸沿いの道を北と南に向かって歩いた。北の方は,浦内川にかかる「浦内橋」がまだできていなかったので,橋の手前(浦内)までしか行けなかったと思う。干立から浦内川河口までは,ゆっくり歩いても30分あれば着く。道は舗装されておらず,浦内川に向かって道の右側は広い湿地帯で,水牛が数匹つないであった。道の左側には浦内川の河口で,成長したオヒルギがびっしりと生えていた。当時は,マングローブの中には何が住んでいるかわからなかったので,怖くて入ることができなかった。(数回行ったら慣れて何ともなくなった。)
南は,与那田川の橋を渡って祖納に行き,祖納の集落外れにある小道を通って NHKの電波中継所まで登った。電波中継所の前にある休憩所からは,外離島(ソトパナリ),内離島(ウチパナリ),網取・崎山(1970年ごろに廃村)方面がよく見えた。祖納からさらに美田良まで行き,そこから尾根に登り白浜まで何度か往復した。この道で素早く飛ぶツマベニチョウを数匹採集した。

図7.離島(西表島か小浜島)から石垣港に向けて航行中の東海丸(1966年3月8日撮影)。乗船しているのは琉球大学の学生と教員ではなかろうか?女子学生や島の住民も乗っていないようなので,チャーター船として運航されたのかもしれない。私たちが1971年に乗船したのは第三幸八丸(東海丸と同じ大きさ)は定期船だった。学生はとんでもなく行儀の悪い乗り方をしているが,私も似たような乗り方で島々の景色を楽しんでいたと思う。私の日常の行儀もあまりよろしくない。

図8. 石垣港から西表島に向かう東海丸。石垣港に停泊中の貨客船は,琉球海運(RKK LINE)の沖縄丸(1200 t)と,もうひとつは有村産業の八汐丸(700 t)かもしれない。琉大ワンゲルが編集した記事では,「西表島へは,第一,第三東光丸,第三幸八丸,住吉丸がそれぞれ大原,白浜,船浦へと運航している」と書かれている。「東光丸」は「東海丸」の間違いか?また,私たちが1971年3月に那覇港から石垣港まで乗ったのは,「ひめゆり丸」ではなくて「沖縄丸」だったのだろう。

図9.大原(西表島)行きの高速船から見た小浜島(2024年に撮影)。西表島の南海岸は波が高く,南回りで白浜まで行くことは難しい。北側を回って行くことになるが,西表島の北側の沖合は波が高く,欠航がある。最近は高速船の構造が改良され,揺れが少なくなっている。この日(2024年6月21日)の海は穏やかだった。

図10.鳩間島への定期船から見た西表島の北側の海(干潮時)。2024年6月30日。北側の海は波が荒く,高速船はしばしば欠航になるが,上原港から鳩間島に行った日は,全く波がなく凪いでいた。写真中央の右半分に黒い部分が見えるが,これらはサンゴ礁原に乗り上げた大きなサンゴ塊(サンゴは死んでいるが,化石にはなっていない。)である。一番中央側にひときわ大きな黒い塊は,サンゴ礁原で座礁した貨物船「鉄栄丸」である。おそらく船浦港に入ろうとして,サンゴ礁原の切れ目を間違えて侵入し,サンゴ礁に突っ込んでしまったのだろう。座礁したのは1968年ごろではなかろうか?引っ張り出そうとしたが,できなかったようだ。

図 11. 西表島の東海岸から眺めた石垣島。今(2026)は,西表島までは「大原航路」と「上原航路」がある。大原は東部にあり,高速船で40分かかる。大原航路の途中の竹富島,黒島,パナリ島付近の海域は割と穏やかなので,台風でも来ない限り欠航はない。上原は西部にあり,高速船で45分から50分かかる。一方,上原航路は西表島の北側を通る。西表島の北側の海域は海が荒れやすく,周期の大きな高波が発生する。「東海丸」や「第三幸八丸」のような小型船は,波の上に乗ったり,波の間に入ったりと激しくもまれる。小型船は,船の操舵技術が低い(悪い)と転覆事故を起こす。船が波に乗った時には,周囲に散らばる八重山の島々がよく見えるが,波の間に入った時にはそれこそ波頭は30度の角度にも見える。こんな波が来たら船はあっという間にさらわれてしまいそうだ。もちろん船は大きく揺れる。それでも学生は船から足を投げ出したり,荷物の置き場の屋根(鉄骨)に登ったりして談笑していた。自然を身近に感じる旅行は思い出に残る。

図12.干立(ほしだて)の海岸。第三幸八丸は,白浜に行く予定だったが,満潮時のこともあって「干立」(西部にある集落)の海岸に入って私たちを下ろしてくれた。写真の左の隅に「浮き」が見えるが,ちょうどこの辺りで船を降りたと思う。干立の海岸には船が接岸できる桟橋はない。ここは私の研究の「始まりの地」である。


図13.干立のフクギ並木(左)と,公民館で歓迎してくれたホオグロヤモリ(右)。撮影は2024年6月。
船(第三幸八丸)を降りると,すぐに干立集落のフクギ並木に出る。フクギ並木を横切って20mも歩けば,公民館に着く。フクギ並木は一度台風でやられ,ひどい状態が続いたが,最近やっと回復した。干立集落内にはヤエヤマオオコウモリが住んでいたが,こちらは台風以降回復していない。(つまり.全然見られなくなってしまった。)
干立公民館には3月12日から22日ごろまで滞在した。一番先に出迎えてくれたのは,「キョッ・・・キョッ・・・」と鳴くホオグロヤモリで,天井には何匹かの個体が張り付いていた。夜になると公民館の明かりにはカミキリムシが集まってきた。リュウキュウヒメカミキリ,ヨコヤマヒメカミキリ,テツイロヒメカミキリに混じってムネモンアカネトラカミキリも飛来した。ワモンサビやコブバネサビ,ヨコスジサビ,アヤモンチビも採集できた。

図14.地面に降りて給水中のミカドアゲハ。大富林道で撮影した(2016年ごろ)。1971年3月にミカドアゲハを採集したか,記憶には残っていない。よく似たチョウとしてはアオスジアゲハが目につくが,年によってはミカドアゲハもたくさん見られることがある。シロオビアゲハも多かったが,最近は少ない。


図15.(左)マラリア原虫の生活環。R.J. Ferl and R.A. Wallace (1996)から転載。(右)アカイエカの形態と生活サイクル。内田亨(1965)から転載。
マラリア原虫を媒介するのはハマダラカであり,生活環の資料は見つけられなかったのでアカイエカの形態を示している。1971年に西表島に行った時には,ハマダラカの数はとんでもなく多かった。ハマダラカは本州にも分布している。静岡県の下田で,夜間にアカテガニのゾエア幼生(zoea larvae)の放出活動を観察していた時にもずいぶんハマダラカに刺された記憶がある。今(2025)は夜中に出歩くことが無くなったために,刺されることはなくなった。
マラリアは1530年ごろに西表島に入った。それ以降500年間,太平洋戦争までマラリアが猛威を振るった。明和大津波(1771年4月24日)とマラリアの被害状況については,竹富町史(出版年は不明)に記載されている。東海大学の研究施設(網取)で読んだ記憶がある。かなり厚い本だった。

図16.白浜の民家で「むしろ」を編んでいるご婦人(1954年12月)。家の前は白浜港。向かい側には内離島(ウチパナリ)が見える。写真の子供たちは,右から6歳,3歳,1歳ぐらいだろうか?子供たちはみな裸足である。1954年だとお母さんも裸足の可能性が高い。八重山諸島では,戦後まで靴を履く習慣がなかったのかもしれない。ところで,お母さんは何人ぐらい子供を生んだのだろうか?3人で終わりということはないだろう。私の予想では,5~6人ぐらいは生んでいると思う。病院のない集落で,5~6人の子供たちを育てるのは苦労が多いだろう。子供たちは成長して何名が白浜に残ったのだろうか?病院は現在(2026)では祖内にひとつある。

図17.白浜の桟橋(1966年3月8日)。「琉球政府関係写真資料」とあるから政府関係者が来たのだろう。集落の人たちが総出で船(東海丸?)を見送っている。桟橋は前後に伸びているのに,何でこんなに狭い範囲に密集して旗を振っているのだろうか?後ろ(右側)の生徒は,ちょっと気を許せば海に落ちるかも・・・。美田良への峠道は,よくがけ崩れが起きる。10年以上前にがけ崩れが起き,現在(2025)も車では峠の手前までしか行けない。歩く分には問題ない。

図18.白浜の集落(1966年3月8日)。道に立っている女の子が支えている自転車は大人用だろう。いわゆる「三角」という乗り方があるが,これは男の子がやっていた乗り方で,女の子が乗っているのは見たことがない。「三角」は私もよく乗ったが,自転車はすぐにこけてあちこち傷だらけになった。こんな写真を見ると,小さいころの記憶がよみがえってくる。自転車の右に立っている木柱はひどく曲がっているので,よく覚えている。1971年には使われていた。

図19.美田良(みたら)の田んぼから祖納に帰る農夫。1966年3月8日。「竹富町史だより,第一号」の表紙には,ご婦人4名が美田良に行く時の写真(1941年撮影)が掲載された。牛車にはその時のご婦人の2名が乗っていると思われる。祖納には,もう使われていない牛小屋がある。そこの住人だろう。私もこの道を通って白浜まで行ったことは間違いない。記憶に残っている。1971年には,水牛の手綱を引く「おっちゃん」と奥さんにも会ったかもしれない。

図20.祖納(そない)から美田良(みたら)にある水田の草取りに行くご婦人4名(竹富町史だより,第一号の表紙)。「西表西部の美田良にある田んぼへ草取りをするため出発するときのスナップ写真。除草機(中耕除草機というらしい)を前に,婦人たちはすべて肌足。西表島は米どころで田植え,草取り,収穫と忙しい。写真は1941年(昭和16年)の撮影。花上政子さんから提供を受けた。」という説明がある。両端に立っているのはお母さんで,中央の2人がそれぞれのお母さんの子供ではなかろうか?撮影時は,お母さんたちは40才を少し超えたぐらいだったろう。子供たちはともに二十歳ぐらいとみた。写真の説明通り,全員裸足である。「中耕除草機」は今では使われていないが,もっと簡素化した草取り器具は販売されている。祖納の集落から美田良まで,歩いて20分ぐらいだろうか?
図20の写真の中央の二人のうち,どちらかの女性が図19の写真に出ている「おっちゃんと」結婚したと思われる。また,牛車にはもう一人男性の日よけ傘が見える。もう一人の女性は,図19の中央のお二人のどちらかと結婚された。・・・というのは考え過ぎだろうか?現在(2026)は,美田良の田んぼは拡充され,写真の「おっちゃん」の子供たち(何名かは不明)が継いでいると思われる。美田良川では排水ポンプを使って,1か月間プランクトン採集を行った(1996年ごろ)。

図21.美田良の集落と美田良の海岸。集落には民家が数軒ある感じがする。1996年ごろに美田良川の河口で,一か月間動物プランクトンの採集を行った。大量のサンプルは,保管するところもないので廃棄した。大浜農園の前の海岸は遠浅で,干潮時ならば家族で水浴び(水遊び)を楽しむことができる。

図22.時化(しけ)で大荒れの海岸(1966年3月8日)。海岸沿いの道は,大波を被る。しかも風は強い。美田良から祖納に行くには海岸沿いの道しかなく,台風でなくても,低気圧が来ればすぐにこんな状態になった。今(2026)は,山側の崖を削って道が広げられて,海岸に押し寄せる波を直接被ることはなくなった。

図23.美田良から祖内方面に向かう「八重山開発」のトラック。1966年3月8日。トラックは立ち往生しているのか,写真撮影のためにしばらく川の手前に待機しているのか不明。南西諸島に降る雨の量は半端なく多い。道が完全に川(濁流)と化している。1971年にもこの場所はそのまま残っていた。

図24.祖内集落の裏側にある海岸。2024年に撮影。図23の道を海沿いに来れば,すぐに祖納の海岸が現れる。正面の奥に右に曲がる道があり,すぐに祖納の集落に入る。祖納も白浜と同様に,住む人は減っている。祖納には西部唯一の郵便局があり,完熟したパイナップルはこの郵便局から送っている。

図25.祖納にある西表小・中学校の校庭(1966年3月8日)。牛が2匹放し飼いになって草を食べている。左奥に見えるのは牛舎だろう(今はない)。1971年に見たクロマツの並木は今(2026)も残っている。校庭には柵はなく,牛はどこかへ行ってしまった,などということはなかったのだろうか?西表島西部を視察に訪れたのは,教育委員会のメンバーだろう。杖を持って視察に赴くところが面白い。西表島では,道の上で動物を含めていろいろな物に出会う。杖はそれらをチェックするための必需品だった。道に現れたサキシマハブなども,この杖があれば道端に放り投げることができる。ただしセマルハコガメ(天然記念物)は,杖ではうまくどけられない。
自然科学の発達をもたらす生存競争(前半)
1966年には,西表島に行った時には,祖納にある西表小中学校の校庭(図25)で牛が2匹放牧されていた。1971年に行った時にも,牛はまだ放牧されていた。本州の学校の校庭で牛を飼ったら,「うちの子供がウンチを踏んづけた・・・」とか「嫌いな子にウンチを投げられた・・・」とか言って大騒ぎになるだろう。牛は子供たちに対して決してフレンドリーではない。機嫌が悪いと角を向けて人を襲ってくる。慣れた大人ならば上手くあしらうことができるが,子供たちだと突き飛ばされて大けがを負うことも考えられる。そうなったら,責任を取って校長先生はクビになる。現代社会では,学校の校庭で牛や馬を飼うのは難しい。
それでは,おとなしいヤギを飼ったらどうか?琉大・熱研の宿泊棟の前の庭では,長い間ヤギを何匹か飼い続けている。放し飼いにすると脱走するので,一応縄でつないである。(熱研のヤギも,宿泊者に対しては全然フレンドリーではない。)ヤギは庭全体を移動できるが,時々自分の縄で縛り首にあって身動きが取れなくなる。その時には職員が出て,絡まったヒモを元に戻す。
ヤギは雑草を食べてくれるが,大量のウンチもする。牛のウンチに比べてヤギのウンチは投げやすい。ケンカ(遊び?)の時には素手でつかんで放り投げることができる。やはり小学校で飼えば,牛と同じ問題が発生する可能性は高い。教育委員会からのご指導を受けて飼えなくなる可能性は高い。
一方,ヤギを飼えばホ乳類の生態や行動,子育てについて多くのことを学ぶことができる。何よりも毎日の生活が驚くほど楽しくなる。ムツゴロウ氏も,研究するよりは動物と一緒に遊ぶことが好きだったのだろう。
「東京大学理学大学院修士課程修了」と「学習研究社に勤務」という看板を投げ打って,ホ乳類と付き合う道を選んだことは立派だ・・・。
・・・いや,そうではない。ホ乳類と付き合う道を選んだことは,ムツゴロウ氏の特技と強く関係している。ムツゴロウ氏は自身が作家の能力が高いことは気づいていた。そんな人にとっては,学歴や職歴を肩に背負って生きる道と好きな道(文学)の間に大変な葛藤が芽生える。どちらを選ぶにしても結果は自分で責任を取らねばならない。ダーウィンも私も同じである。
そう言えば,東京高等師範学校とその後継大学(中教審大学?)には,「遊び心」の豊かな人が多かった。つまり,生物の生態や行動に関心のある人たちがたくさんいた。関口晃一氏もそのひとりに入る。そんな人たちにとって,どの段階で俗世と妥協するかは大きな問題である。関口晃一氏はうまく妥協したと思う。
俗世(その時代の社会的要求)を満足させる生き方と,個人の興味や関心を追及する生き方は,相反することが多い。俗世に生きれば,社会的地位とか多額の金銭を得て,見かけ上は満足な暮らしを営むことができる。しかし東京高等師範学校の出身者の中には,俗世の世界から逃避して,趣味の世界に身を投じた者も少なくない。そんな生き方が日本の生物学の発展を妨げて,東京高等師範学校は現代生物学の発達に乗り遅れてしまった感がある。競争がなければ自然科学の発達も止まる。

図26.与那田川に架かる橋(1966年3月8日)。橋と道路の境にある「段差」はよく覚えている。今は新しい橋ができている。段差は残っていないが,橋と道路の境は明瞭に残っている。竹富町か沖縄県の教育委員会の視察。教育委員会の視察だとあれほど(図17)大々的に歓迎されることはないと思う。白浜に一泊して,翌日にこの道を通って上原あたりまで行ったのかと思う。上原でさらに一泊して船浦から船(東海丸か第三幸八丸)に乗って石垣に引き上げたのだろう。

図27.与那田川の河口。与那田川の場合には,川全体が河口(estuary)になっている。潮の影響が及ぶ泥干潟(mud tidal-flat)には,干潮時になるとスナモグリの作った塚(mound)が露出する。エビ類(根鰓亜目と抱卵亜目),シオマネキ,オカガニ,ノコギリガザミ,運が良ければオキナワアナジャコが採集できる。

図28.白浜港の桟橋に接岸する東海丸(定期便)。1966年3月8日。土日を挟んで連休が 白浜は太平洋戦争中に石炭の積出港として栄えた。船の中にいるのは,これから東海丸を下船する人たちだろう。船を降りる方も,桟橋で待機している方も,今だったら危険極まりない行動をしている。特に子供たちは危なくて見ていられない。私は未だにこんな状態で行動しているので,最近はひどく怒られることが多い。私の方もバカなので大声で応戦する。かくしてすごいトラブルが勃発する。

図29.船浦港に入港する東海丸(1966年6月)。向かい側に見えるのは,船浦港を出港する住吉丸。牛を一匹積んでいる。船室の屋根に4~5人が座っている。屋根に登るのはみな男ばかり。女性は船室の中でごろ寝していることが多い。東海丸も住吉丸も,分類上は貨客船に入るのだろうか?住吉丸は,牛が暴れだしたら船は転覆するかもしれない。今(2026)は,家畜(石垣島に着くと「石垣牛」というブラン名に変わる)はどこの運送会社が引き受けているのだろうか?
自然科学の発達をもたらす生存競争(後半)
すべての生命は「生存競争」を通して進化する。生存競争という概念は,ダーウィンが生物の行動や生態に関する広範な観察と野外実験の結果に基づいて導き出した「仮説」である。言い換えれば,チャールズ・ダーウィンは「帰納法」(inductive method)を駆使して生物界に存在する「原則」を導き出したと言える。
一方では「生存競争は生物社会の普遍的原則ではない。」と主張する人たちがいる。そのような人々の心の底には,生物社会は例えば今西錦司氏が提唱した「棲み分け」(habitat segregation)によって成り立つという信念がある。注意すべきは,「棲み分け」という概念は,仮説ではなく「理論」だと言うことである。ダーウィンの唱えた「自然選択説」が帰納法によって導かれているのに対し,棲み分け理論は演繹法(deductive method)にその基礎を置いている。演繹法は,ア・プリオリ(a priori)にある原則を思考の中心に置き,その原則に基づいて個別の現象(水生昆虫の生態や行動)を説明する。
理屈から言えば,演繹法では前提(原則)が正しく,試行の道筋も正しければ結論も正しくなるはずである。演繹法によって導き出された理論は,宗教(religion)における教義(doctrine)と同じカテゴリーに入る。そして理論を提唱した教祖さま(権威者)の言うことは,絶対の重みを持つ。生態学や行動学の分野ならば今西錦司殿下・伊藤嘉昭殿下,万歳!万歳!万々歳!である。
演繹法は,共産主義や社会主義の理念にはよくマッチする。もちろん宗教国では大変な歓迎を受ける。一方,自由主義社会では,政治,文化,科学には個人の意見が反映される。多くの人々は,「棲み分け理論」よりも
「競争仮説」の方が,現実の生物社会をより正確に説明していると直感的に思っているのだろう。
京都大学理学部には,6年間ほどお世話になった。京都大学理学部の特徴は,実証的手法を毛嫌いする者が多かったこと。ある意味「自由人」である。具体的に言えば,生態学者・行動学者・分類学者・進化学者は,パスツールが行った「微生物の実験」には,強い興味は示さなかった。演繹法を駆使して生物界を眺めているので,生物学は「思想の科学」になっていた。その先にある「社会生物学」は,学会の中で益々勢力が拡大しているのではないだろうか?もちろん思弁を基礎に置く生物学者も,実験を視野に入れてない訳ではない。しかし彼らの言う実験とやらは独特である。最初のステップに「帰無仮説」を持ってきて,それを統計解析(statistics)によって検証することが,彼らの実験であった。
そんな生物学は「偽物」の上に見栄えのする「塗り薬」(統計的解析)を施して完成品を作るようなものである。私は,そこには生物学の新しい流れを感じることができなかった。
これではいくら頑張っても,組織の中で自分の順位は上がらない。多くの先輩方は生態学の道で順位を上げて行ったが,私は野外調査で得られた記載的データを,構造(structure)や形態形成(morphogenesis)を軸にして解析する道を選んだ。周りからは陰口をいっぱいたたかれたが,うわさに目くじらを立てて周囲に迎合したくはなかった。かくして「空気読めない人」は誕生した。

図30.西表島の視察に来たアメリカの高等弁務官。
分類名:高等弁務官
撮影地:竹富町豊原(西表島)。(豊原は,白浜の間違い)
撮 影 日:1961年11月28日
アルバム名:USCAR広報局写真資料8-2
写真解説:High Commissioner Inspecting Iriomote(西表を視察する高等弁務官)
高等弁務官の後ろの海岸は広範囲に埋め立てられている。
白浜は平地が少なく,海岸沿いには急峻な山々(標高400m前後のウシクムルヤハテルマムル)が控えている。山々の地層
白浜から舟浮間の海岸に露出している砂岩にはたくさんのイシアナジャコが住んでいる。5~6種ほど記載したと思うが,形態的には微細な違いしかない。分子系統解析によれば,30万年前から65万年前に種分化が起きたようだ。50万年ぐらいだと,隔離された2つの個体群の遺伝子には多少の違いが生じるだろうが,構造(structure)には強く反映されていないのだろう。リンネの時代から全く変わらない古典的学問(分類学)に関わって,だいぶ時間を浪費した。多くの不毛な議論にも巻き込まれて抜け出すのが大変だった。

分類名: 学内活動
写真解説:
【原文】LT. GEN. PAUL W. CARAWAY, HIGH COMMISSIONER OF THE RYUKYU ISLANDS, IS GIVEN A WARM HAND SHAKE AFTER PRESENTING A GIFT OF SCHOOL EQUIPMENT TO PRINCIPAL GORO OHAMA AT THE KOMI SCHOOL ON THE ISLAND OF IRIOMOTE.
【和訳】 琉球列島米国民政府のポール・W・キャラウェイ高等弁務官は,西表島の古見の学校で大浜五郎校長に学校備品を贈呈した後,温かい握手を交わす。
【分類】School Activities / 学内活動(学校訪問活動)
撮影地: 竹富町古見
撮影日: 1962年10月1日
資料コード: 0000213511
写真番号: 260CR-02_0206-01
アルバム名: USCAR広報局写真資料026
図31.アメリカ式のあいさつと日本式のあいさつ。
HIGH COMMISSIONER OF THE RYUKYU ISLANDS
United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)は,米軍が沖縄に設けた統治機構とのこと。United States Civil Administrationは「米国民政府」ではなく,「米国・民生政府」という方がわかりやすいと思う。
アメリカ人の挨拶は片方の手で握手するのが普通だが,日本人は両手を使って握手している例が目立つ。両手を使った握手は,方でだけ使うのとは,別な意味になるかもしれない。
日本人の挨拶は,直立不動で体を前に倒すのが普通である。古見小学校の校長先生は,古式ゆかしき日本式の挨拶をしようとした。高等弁務官が右手を差し出したので,つい自分も右手を差し出して応じたために,ちょっと変な姿勢になってしまった。太平洋戦争時代の日本の政治家や軍隊の将官は,占領軍の高等弁務官と挨拶を交わすことは絶対に拒否したと思うが,どうだろうか?

図32.埋め立てが進行中の白浜港。1971年に行ったときには,白浜港の埋め立ては完成していたと思う。白浜は,太平洋戦争中には石炭の積出港として栄えたが,今は観光客の方が多い。1971年と1972年にいったときには,この辺りにいっぱい木材が積まれていた。近くにある仲良川沿いの亜熱帯林で伐採が行われていたのだろう。材の中ではカミキリムシ(コゲチャトゲフチオオウスバカミキリやウスバカミキリ?)の幼虫が木部をかじる音が聞こえた。古い家屋でも同じ音を聞いた。

図33.祖納の海岸から見た西部の海岸。2025年7月上旬に撮影した。ボディはCanon EOS 7D, レンズはTAMRON 28–300 mm F 3.5–6.3 (Made in China)。 望遠は最大の300 mmにしている。この写真は実際の地形(topography)とは大きく異なっている。まずはゴリラ岩と灯台がすぐ近くにあるように見えること。次に,ゴリラ岩(あるいは灯台)と外離島(ソトパナリ)の海岸は陸でつながっているように見えること。西海岸は険しい地形が多い。望遠レンズは遠くの崖の状態を見るにはよい。

図34.西表島西部の海岸。灯台,ゴリラ岩,外離島(ソトパナリ)のほぼ正確な位置関係。外離島は灯台からずっと右にある。2006年ごろの撮影。レンズゴミだらけ。
<参考文献>
- 朝日新聞社(編) 1944. 南方の據點臺灣 寫眞報道
- 安渓遊地(1987) 西表島関係文献目録(前編)。 南島文化8: 55–90.
- 安渓遊地(1987) 西表島関係文献目録(後編)。 南島文化9: 71–100.
- ボールド, H.C. (西田誠 訳) 1972。 植物の世界。現代生物学入門9。岩波書店。
- コルバート,E.H. (田隅本生 訳) 脊椎動物の進化(上巻と下巻)。築地書館。
- Dawkins, R. (1986) The Blind Watchmaker. Longman Scientific & Technical. Essex.
- Ferl, R.J., and R.A. Wallace (1996) Biology. The Realm of Life. Third Edition. HarperCollins College Publishers.
- Grant, P.R., and B.R. Grant (2008) How and Why Species Multiply: The Radiation of Darwin’s Finches. Princeton University Press. New Jersey.
- 畑中幸子(1967) 南太平洋の環礁にて。岩波新書。
- 今堀宏三・田村道夫(1978) 系統と進化の生物学。培風館。
- 今西錦司(編・著) 1975. ポナペ島 生態学的研究。講談社(復刻版)。
- 板野徹(2019 ) 島の科学者 パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究。勁草書房。
- 井上浩(編) 1974.植物系統進化学。築地書館。
- 神谷厚昭 (2001)西表島の地形と地質–露頭の紹介を中心として。沖縄県立博物館 (編). 西表島総合調査報告書 Pp. 3–20.
- 木村政昭 (1996) 琉球弧の第四紀古地理。地学雑誌105: 259–285.
- 木村資生(1988) 生物進化を考える。岩波新書。
- 京浜昆虫同好会(1973) 新しい昆虫採集案内(Ⅲ)‒離島・沖縄採集地案内編。内田老鶴圃新社。
- 菊池俊英(1976)人間の生物学。理工学社。
- 小島圭三・林匡夫(1969) 原色日本昆虫生態図鑑 Ⅰ. カミキリ編。保育社。
- 小竹信宏・亀尾浩司・奈良正和 (2013)沖縄県西表島の中部中新統西表層最上部の地質年代と堆積環境。地質学雑誌 119: 701–713
- 琉球大学ワンダーフォーゲル部 OB会(2006) 南海の秘境 西表島。http://skillet.jp/ruwv/iriomote/hoshidatemade.htm
- (琉大ワンゲルが,1972年に西表島を旅行した時の記録。私は1972年の夏に東部の大原で著者に会っている。本人は覚えていないだろう。)
- 平尾正治(2007) ソロモン軍医戦記–軍医大尉が見た海軍陸戦隊の死闘。光人社NF文庫。
- MacKinnon, J., and K. Phillips (2010) A Field Guide to the Birds of China. Oxford University Press, Oxford.
- 松本 剛・木村 政昭・仲村 明子・青木 美澄 (1996)琉球弧のトカラギャップおよびケラマギャップにおける精密地形形態。地学雑誌105: 286-29.
- Masunari, N., M. Hiro-oku, S. Dan, T. Nanri, M. Kondo, M. Goto, Y. Takada, and M. Saigusa (2015) Chela asymmetry in a durophagous crab: predominance of right-handedness and handedness reversal is linked to chela size and closing force. J. Exp. Biol. 218: 3658–3670.
- 向一陽 (1974) アタカマ高地探検記–風と砂とインカの道。中公新書。
- 中村和郎 他4名(1996) 南の島々(日本の自然 地域編8)。岩波書店。
- 西村三郎(1983) 動物の起源論。中公新書。
- Oishi, K., and M. Saigusa (1999) Rhythmic patterns of abundance in small sublittoral crustaceans: variety in the synchrony with day/night and tidal cycles. Mar. Biol. 133: 237–247.
- Oishi, K., and M. Saigusa (1997) Nighttime emergence patterns of planktonic and benthic crustaceans in a shallow subtidal environment. J. Oceanogr. 53: 611-621.
- 小野幹雄(1994) 孤島の生物たち–ガラパゴスと小笠原。 岩波新書。
- オパーリン 著 ・江上不二夫 編 (1956)生命の起原と生化学。 岩波新書。
- 菅野茂(2017) 7%の運命 東部ニューギニア戦線密林からの生還。光人社NF文庫。
- 周文一(2004) 台灣天牛圖鑑(全新美耐版)。貓頭鷹出版。
- 平朝彦(1990) 日本列島の誕生。岩波新書。
- 山田幸男・瀬川宗吉 (1956) 原色日本海藻図鑑。保育社。
- 琉球大学尖閣列島学術調査団 (1971) 尖閣列島学術調査報告 1971年7月。琉球大学。
- Saigusa, M., and K. Oishi (1999) Emergence of small invertebrates in the shallow subtidal zone: investigations in a subtropical sea at Iriomote-jima in the Ryukyu islands, Japan. Benthos Res. 54: 59–70.
- Saigusa, M., and K. Oishi (2000) Emergence rhythms of subtidal small invertebrates in the subtropical sea: nocturnal patterns and variety in the synchrony with tidal and lunar cycles. Zool. Sci. 17: 241–251
- Saigusa, M. (2001) Daily rhythms of emergence of small invertebrates inhabiting shallow subtidal zones: A comparative investigation at four locations in Japan. Ecol. Res. 16: 1–28.
- 佐々 学・緒方 一喜(1960) 衛生害虫。岩波全書。
- 佐々学・海老沢功・神田錬蔵(1967) 熱帯病学。東京大学出版会。
- 佐々学(1977) 熱帯への郷愁 新宿書房。
- 佐藤弘正 (2018) ニューギニア兵隊戦記–陸軍高射砲隊兵士の生還記。 光人社NF文庫。
- 関口晃一(2008) いつの間にやら米寿を越えて。アサヒ印刷。
- シュレーディンガー, E. (岡小天・鎮目恭夫 訳) 1951. 生命とは何か: 物理的にみた生細胞。岩波新書。
- Wikipedia: 地方病 (日本住血吸虫症)。https://ja.wikipedia.org/wiki/地方病。
- 山川新作(2004)空母艦爆隊: 艦爆搭乗員死闘の記録。 光人社ノンフィクション文庫 53。
- 八杉竜一(1969) 進化論の歴史。岩波新書。