令和4年(2022)7月26日(火)
7月も下旬に入ると,多くの巣箱で幼鳥が巣立つ。にぎやかだったブッポウソウの子育てが終わり,里山(woodland)の森(辞書ではforestが出てくるが,woodsが対応するだろう。)も静けさを取り戻す。・・・なんて言うのは大ウソで,日中はニイニイゼミやアブラゼミの暑苦しい鳴き声が響き,夕方になるとヒグラシの大合唱が始まる。ウグイスは相変わらず大声でホーホテチチョを繰り返し,ヒヨドリのかまびすしい鳴き声は谷の奥まで響き渡る(図1)。
カラス(5~6匹)は,私が来るのを待っている。基地に到着するとすぐに仲間に知らせるらしく,ガーガーという鳴き声が響く。居候の猫(名前は「華」)のエサを横取りすべく,私が基地を離れるや否や舞い降りてくる。私が基地にいるときは,「パシッ」と大声を出すのでカラスは逃げる。ブッポウソウのペアは,私がいる間はカラスを追わず,木陰で休んでいる。私がいなくなると,早速カラスが下りてくるので,木陰から飛び出し,すさまじい勢いでカラスを追いかけている。ブッポウソウは明らかに私を門番として利用している。
図1.基地の風景。巣箱は写真中央付近の自立柱に架けてある。カメラと巣箱の直線距離は40mぐらい。RICOH WG-50で撮影。SONY RXⅢでは青空がうまく撮影できず,コンパクトカメラを使ってみたが,できばえは今一つ。
ブッポウソウの研究に関しては,今年(2022)から子育てを中心とした行動観察に移行した。行動観察のためには,ブッポウソウがよく見える位置から,エサ運びを邪魔することなく撮影できる場所が必要だ。前の記事(No. 25)では,巨瀬町の県道沿いにあるM-03の巣箱を紹介した。続いて,吉備中央町にあるWA-01の巣箱を紹介したい。なお,M-03やWA-01のある場所に来て撮影してほしいということでは絶対にないので,くれぐれも誤解なきようお願いする。
基地では,ブッポウソウの自立柱がある周辺は,ヒメジョンが生い茂っている(図1)。草刈りを始めたころにブッポウソウが来て中断。(草刈りの時間がとれなくなったということで,草刈りが子育てを邪魔するということではない。)基地の中には3か所に観察小屋を置いた。最初の観察小屋は,カメラに対して巣箱が後ろ向きになってしまい,ブッポウソウの体の一部しか写らず,いい写真は少ない。後の2つは巣箱の前面から撮影できるが,両側に木の枝が被うため,鳥の姿が見えてからシャッターを押すタイミングが遅れるという難点があった。
図2.観察場所は道路外であり, 2t程度の車両ならば通行に支障はない。大事なのは,軽トラの駐車だということ。イノシシ撃ちのじいさんたちが乗る軽トラがよくこんなところに駐車している。しかも5~6台並んで・・・。普通車の駐車だと,交通事故の防止の点で,町から(私が)注意される可能性が高い。なお吉備中央町では,私と同じナンバーの軽トラを見たことがある。ちょうどこの場所を走っているのを見たことがある。夢に出てきたのではないと思う。
カメラなら5台ぐらいまでは,置けるかもしれない。しかし,この小川で野菜を洗っている方がいる。ここはその上流に当たる。たくさんの人が長期にこの場所を利用して,川を有機物で汚染する結果になったらまずいだろう。だから,ここで撮影できるのは,私と近澤さんぐらいしかいない。有機物汚染が何か知らないという方は,ここには絶対に来るべきでない。
図3.観察場所の正面の落葉広葉樹林。真上のノグルミで日光がさえぎられ,また風通しもよいので,観察場所として,あるいはうたた寝場所として最適。 7月20日ごろから7月末にかけて,ヒグラシの大合唱を聞くことができる。
図4.ゴマダラカミキリ。ニセノコギリカミキリと並んで真夏のカミキリムシ。もちろんブッポウソウのごちそうになる。
多様性プロジェクトの基地の周囲は,落葉広葉樹林で覆われている(図3)。森林区分から言ったら,吉備中央町は夏緑樹林帯ではなく,照葉樹林帯に入るだろう。景観を表現する単語は,イメージが優先し,神がかっている単語が多い。里山,里海,渡瀬線も同様である。かつてはイメージ優先の区分をして達観した研究者たちがいて,その影響が生物学の教科書に残っている。俳句にはよいが,学問的には(国際的には)使えない植物生態学の分野の用語は多い。
ブッポウソウは長時間エサやりに来てくれないこともある。そんな時に双眼鏡を使って,この場所(図1)から見える山の斜面に生えている樹木を調べてみた。以下,昔の記憶を頼りに種名を挙げてみた。
コナラ,アベマキ(クヌギ),ナラガシワ,サワグルミ,ホウ,タラ,ケヤキ,クリ,サクラ,アカメガシワ,フジ,ハゼ,ヤマウルシ,リョウブ,ネム,クワ,カキ,イチョウ,ウメ,クサギ,コシアブラ,ハギ,ツバキ,アラカシ,スギ,ヒノキといったところであろうか。その他にどうしても名前の思い出せない重要な樹木が3種類ある。なお,ツバキとアラカシは常緑広葉樹(これらが照葉樹林の代表種)で,スギとヒノキは針葉樹に分類される。(イチョウは裸子植物。)ウツギもあるはずだが,不思議なことに今年(2022)は咲いていない。エノキとシデはこの斜面にあるか不明。
図5.巣箱にヒグラシを持って来たブッポウソウのメス。姿は2倍に拡大すればダイナミックな映像になるだろう。
ブッポウソウは,エサを捕るとすぐに巣箱に直行というケースもあるが,いったん近くの木の枝にとまり,しばらくして巣箱の方に滑空して降りてくるケースが多い。滑空は右に左に旋回しながら降りてくることが多い。・・・なので,旋回している間にカメラのシャッター・ボタンを押す準備をしておかねばならない。図5では,focusは中央のカメラの周囲に合わせている。飛行機が滑走路に下りてきたときと同じように,巣箱の入り口に入る体制になった瞬間にボタンを長押しすれば,巣箱に近づいてから入るまでの連続撮影ができる。
さて,ヒグラシをくわえて巣箱に入ろうとするブッポウソウは,どこを見ているのだろうか?両眼視をしていて,focusは巣箱の入り口に充てられていると思われる。鳥だけ切り取ったのでは,おバカなブッポウソウが空中に浮いている感じになる。動物の行動を解析するには,周囲の構造物も見なければならない。
写真家の方々には,野鳥の会の会員を含めて,ぜひブッポウソウの良い写真を撮ってもらいたいと思う。しかし,問題はある。多様性プロジェクトが設置した巣箱は,ブッポウソウの生態を研究するために設置されており,町おこしのためではないこと。それを理解されているならば許可します。しかし,この場所(図1)については,現実的には私と近澤峰男さん(故人)以外に利用していただくのは無理だろう。
図6.巣箱(WA-01)から出るブッポウソウのメス。研究の推進には,近澤峰男さんの支援が大きかった。Canon製600mmレンズとEOS 7D(現在では販売終了)は,大きな威力を発揮する。高機動ロケット砲システム(High Mobility Artillery Rocket System, HIMARS)みたいな感じかな?日本が進めた精神主義は,太平洋戦争ではあまり役立たないことが証明された。近代戦では,精神力よりも技術力の高い方が勝利する可能性が高い。HIMARSがあれば(だけではないが・・・),写真家や研究者を自称する人たちの身勝手な要求に屈することなく,独自の学術活動を展開することができる。しかし,近澤さんも写真家のひとりである。ご自分でもそう言っておられた。決して写真家だけが身勝手な要求を押し付けてくる訳ではない。相手の弱みや親切心に付け込んで,身勝手な要求を押し付ける人々が世の中にはたくさんいるということだろう。特に権威者なる人たちの甘言には注意が必要である。
図6は,いったん巣箱に入ってから再び出てきたブッポウソウを示している。ブッポウソウの映像は,インターネットを見れば山ほど出ている。それらと同じ飛翔の姿では,見る方も飽きる。ちょっと雰囲気の変わった映像を選んでみたが,ちょっとピンボケか?足の肌色のところはヒトで言う「足」。青い「もも引」の部分は足の「すね」。だから,鳥の場合には足はすねに対して前方に曲がり,ヒトでは膝関節を境に後方に曲がる。膝から上(大腿部)は羽毛に隠れて見えていない。
記事は第4コーナーを回ってゴールに近づいた。ひとつ前の記事(No. 25)で懲罰傾向が顕著と書いた件で,少し補足しておきたい。目的を持って作られた組織が,社会の中で正常に作動するためには,日本国憲法だけに頼る訳にはいかない。内規とか条例とか,特定の社会に固有な法律を作って対応する必要が出てくる。
一方,妬みや嫉妬(逆恨み)があって,自分の憂さを晴らすために,規則や法律を悪用して競合者を貶めようとする者が社会の中に混じるのは,どこの国でも同じだろう。
問題は,懲罰的傾向の強い組織の法律は,そういう者たちに利用されやすいという点である。もちろん,特にブッポウソウのことに対して言っている訳ではない。
そういう方々の陰謀に負けては,人格まで損なう結果になる。人格までダメになっちゃった方々を過去にたくさん見てきた。こういう人たちは本当に付き合いにくい。負けないようにするためには,攻撃が続くうちは耐え抜いて,密かに反撃するチャンスをうかがうことも大事ではないか?孤軍奮闘になったときには,それこそ屈辱的な「みかじめ料」を払うこともあるかもしれない。それでも目標や目的を失わなければ,いつかはリベンジのチャンスが訪れる。
現代社会に生きる人々は,リベンジのチャンスを窺うことなく,つまり攻撃者の能力とか戦いのパターンとかについて多くのシミュレーシンをすることなく,すぐに投降する者が多いように思われる。センター試験で点数を上げる実務的教育も大事だが,賢く生きるための教育も導入できないだろうか?となると,すぐに二宮金次郎や乃木希典氏が頭に浮かんでくる道徳教育が浮上するが,これは完全な逆効果になる。(しかし,あんまり二宮金次郎を茶化すのはお勧めしない。あれはあれで貧乏な時代の社会のノスタルジア的な理念がある。あんまり茶化すとばちが当たるぞ。)
ひとつには,物を書く,論理的な文章を書く訓練は,よい効果が期待できるだろう。日本語にしても英語にしても,中等教育や大学教育,大学院の教育では完全に抜け落ちてしまっている。正解がないと出題者は,解答の採点で社会から激しく突き上げられる。社会には小さな間違いを探し出す特殊能力を持った者がいる。そういうやつら(言葉が悪くてすみません。)に目を付けられると,大変怖い思いをさせられる。また,文部科学省からひと言注意でもあれば,ほとんど切腹ものである(真面目な話)。
物を書く,論理的な文章を書く指導をするためには,指導する側にもそれなりの見識や常識が求められる。それなりの見識や常識を持った方々は世の中に一定の割合でいると思う。そういう方々を信用して進める教育(主観的教育)というのもありだと思う。物が書ければ考える力が育つ。論理的な文章が書ければ,競争者(敵)の能力の客観的な査定や合理的な戦法(生き方)のシミュレーションができる。つまり賢い生き方につながるだろう。
正解(模範解答)を次の日に新聞に載せて,これから一歩外れたらあなたの知能は劣っていますと思わせる画一型教育(これは実務家の重視する教育)を浸透させるのではなく,もうちょっと自由に世界を考えることのできる主観的教育(論理的な正しさとか,倫理観の多様性とか,個性的なものの考え方とか)も推進したらよい。採点にはそれなりの見識や常識が求められる。それなりの見識や常識を持った方々を信じたらよいのではなかろうか?文部科学省は主観的教育を進めようとしているのかもしれないが,現場に浸透させるのは困難である。主観的教育というのは,責任の所在がすぐにわかる。小さなミスでも鬼の首を取ったように高ぶる人に攻撃されると,誰でも恐ろしくなる。火中の栗を拾うようなことはみんな避けたがるだろう。
目標を強く(高くではない)持ち続ければ,それなりの試練にも耐えられるということだろう。上達することは試練をともなう。目標を強く持つこと,試練に耐えられる力をつけるのは,鉄拳制裁が一番安上がりの方法かもしれない。しかし,それでは目標自体を他人が設定してしまうことになり,民主主義の根幹を揺るがす教育になる。逆に,鉄拳制裁がなければ,人は易きに流れる。そこに現代社会のジレンマがある。自己鍛錬を効かせたイチローの生き方なんかは,参考にしてもいいのではなかろうか。
何かを強く推進しようと思う時には,必ず反対する人たちが出現する。ひとつの組織の中ではやられっぱなしということもあるだろうが,組織が違えば考え方も大きく異なる。違う組織同士だと場外乱闘みたいになって,こちらにも勝ち目が出てくる。もちろん,勝てるかはやってみなければわからない。また,記事を書いて公表することも攻撃の抑止効果を期待できる。
社会をうまく運営してゆくためには,実務家教育だけでは不十分である。現代の日本は実務家教育が主流になっていて,自由度や多様性が低い。実務家教育は常に規範(standardという単語が該当。modelとかexampleでもいいと思う。)を学び,それから逸脱しないよう強制する。ひとつの教育の方法なので,別に悪いと言っている訳ではない。しかし,実務家教育では,個性とか独自性は2の次,3の次になる。
実務家教育は,先端技術の開発には向いているかもしれないが,私を含めて実務的能力のない人たち(よく「遊び人」と揶揄される)には,とても息苦しい社会を作りあげる。主観的教育(subjective education)を受けて醸成された物の見方や考え方(意見)のぶつかり合いが,強い国家を作ってゆくのではないか?実務家養成教育だけだと,個性的な意見が許されず,面従腹背的行動が横行する脆弱な国家になる。また,主観的教育を守ることが組織の役割だと思うが,現実は逃避する傾向が益々強まっている。
<参考文献>
- 小島奎三・林匡夫(1969)原色日本昆虫生態図鑑I.カミキリ編。保育社。
- 石原勝敏・庄野邦彦・他13名(2010)新版 高校生物Ⅱ(改訂版)。実教出版。
- 八杉竜一(1969)進化論の歴史。岩波新書。
- 藤沢周平(1988)蟬しぐれ。文芸春秋。
図7.ヒグラシを運ぶブッポウソウ。図5の一部を拡大(もっと拡大も可能)。蜘蛛の巣がいい感じに置かれている。