令和3年(2021)9月12日(日)
西表島の海岸(潮間帯)やマングローブ(ヒルギ林)には,イシアナジャコ(Upogebia)という小型のアナジャコが石や岩(粒度は砂岩と泥岩の中間ぐらい)の中に穴を掘って住んでいる。私たちは,南西諸島の海岸やマングローブに生息するイシアナジャコの分類・行動・進化を研究してきた。
西表島では干潮時(low tide)に海岸の干潟や河口の土手にあるさまざまな大きさの石や岩を,ほぼ全域に渡って調べた。干潟を歩いているときに,よく出くわしたのが,図1と図2に示されているように,海岸に細長く敷き詰められた小石の列である。
潮が上げてくると,小石の列は水につかる。列の切れ目から魚が入り込み,干潮時の間に砂の中にたまっていた空気が大量の泥の泡(あわ)となって陸地の方に向かってくる近くを,すごい勢いで泳いでゆく。潮が上げている間は,20 cmから30 cm級の魚を捕まえるのは簡単だ。一度,60~70 cmもあろうかと思われるダツが,水しぶきを上げながら水上を突進する姿を見かけたことがある。こちら側に向かって突進してくるダツは恐怖である。魚は満潮時のころまで石積みの囲いの中にいるが,潮が引きだすと深いところに戻ってゆく。
図2は,図1と反対側の干潟を示している。小石の列は,反対側も陸地の近くまで続いている。砂浜になっているところから先は,小石は少ししか積まれていない。
西表島の海岸は,遠浅のところが多く,砂の上に敷き詰められた小石の列が残っているところが多い。西側から北側にかけては,干立(ほしだて),船浦,赤離(図1と図2),ユツンの海岸など。東側は西側に比べ,遠浅の範囲がずっと広く,地形的に追い込み漁には向いていない。つまり,礁原は干潮時には干上がり,満潮時でも広範囲に浅瀬が続く場合には,海岸の近くまで魚が来ない。
どんな漁をしていたかの詳細は不明だが,図1と図2の写真に見られる小石は,そんなに古いころに海岸に積まれたのではない。
西表島の西側の海岸は,崖になっているところが多い。がけ崩れで地表に露出した石や岩は,泥岩や砂岩が多い。波打ち際まで崩れ落ちた石や岩のうち,泥岩や比較的柔らかい砂岩には,イシアナジャコが住み着く(図3)。私の予想では,海水につかるようになってからすぐに住み着くのではなく,50年はかかる。たくさん住んでいる岩は,100年以上経っているかもしれない。しかし,300年もすれば,岩は巣穴もろとも砂の中に埋もれてしまうだろう。
海岸に敷き詰められた小石(図1と図2)を調べると,粒度が細かく,比較的柔らかい砂泥岩が混じっている。しかし,これらの石の中にはイシアナジャコの巣穴はまだ少ない。この場所に置かれてから久しいことは確実だが,何百年も経過しているとは思えない。
海岸に敷き詰められた小石のことは,一度カンピラ荘のおじさん(もう今はかなりのおじいちゃん)に尋ねたことがある。カンピラ荘一家は,戦後に上原に来られたようだが,西表島に来た時には,すでにこのような構造物はあったというご返事であった。つまり,小石は海岸に置かれてから,60年から70年以上経過していることは間違いない。
図3.Upogebia semicirculaと名付けた新種。左の写真は巣穴。右の写真は穴の中に入っていたイシアナジャコ。和名は「フナウライシアナジャコ」とした。フナウライシアナジャコは,西表島の中でも分布が限られ,船浦の付近の海岸に集中的に生息する。ミトコンドリアDNAの塩基配列の違いから,西表島には全部で5種類のイシアナジャコが生息していることがわかった。すべて新種として登録されている。
令和2年(2020)に石垣市役所から発行された石垣市のパンフレット(名称は不明)の中に「くらしの情報」という項目があり,その中のダイジェスト2「海と暮らし(戦前)」という記述がある。そこに載っている写真(図4)を見て,おおよその見当がついた感じがした。
堡礁に囲まれた島じまは、天然の漁礁を持っている。浅いリーフの内側は魚や貝や海藻を採り、暮らしに資する、さながら〃海の畑〃であった。
図4とともに石垣市役所発行「海と暮らし(戦前)」から引用。
そんな八重山の海にサバニ(木造の小型漁船)漁が行なわれるようになったのは、明治二〇年代に沖縄本島の糸満漁師がやってきてからである。初めは季節的な仮小屋であったらしいが、そのうちウミンチュ(漁師)たちは、定住するようになる。
サバニから陸揚げされた魚は、女たちの手で市場や行商で街の人たちに売られた。糸満での夫婦分業の習慣が、そのまま持ち込まれた。こうした漁師の家は、戦前、百戸を数えたが、たいていの家には二~三人から多い家では五~六人もの「糸満売り」(身売り)されてきたヤトゥイングヮ(雇い子)が使われていた。その少年たちの数は三百人ほどいたという。戦後、児童福祉法上の人権問題となり廃止されたが、青い海は悲しい歴史も吸い込んでいた。(文・三木健)
西表島では,マラリア罹って死亡する人たちの割合が高く,長い年月にわたり人口は増加しなかった。Wikipediaを見ると,明治39年(1906)に設立された沖縄炭鉱や琉球炭鉱は,日露戦争から第一次世界大戦にかけての好景気に乗って成功を収めた,とある。この時期(炭鉱開発の前半)には石炭の採掘は,内離島や白浜で行われていたようである。大正8年(1919)には,西表島の総人口は2,889人という記述をどこかで見た。
昭和11年(1936)からは,宇多良炭鉱所の操業が始まり,採掘された石炭は浦内港(場所は不明)から,本土以外にも台湾や香港に輸出されていたようである。Wikipediaによれば,採掘の最盛期である昭和12年(1937)ごろには,1,400人が炭鉱労働者として働いていた。労働者の家族も入れると,3,000人以上の人たちが白浜や浦内を中心に生活していたと思われる。西表島の海岸で捕れる魚介類は,炭鉱で働く人たちとその家族にとって重要なタンパク源だったと思われる。つまり,海岸で魚を捕れば,買ってくれる人たちがいたと思う。
私の想像では,炭鉱の採掘が軌道に乗って,労働者がたくさん西表島で働いているという情報に刺激を受け,大正時代(1912年から1926年)に,西表島でも海岸で追い込み漁(もしくは出口に網)が始まったのではないだろうか。捕った魚を売りさばくのはご婦人方の仕事なので,漁場には家族できたと思われる。当然ご自分の子供たちもいたのではないか。さらに見売りされた子供が数人いた場合には,その子たちもいっしょについてきたかもしれない。
図1と図2に写っている小石を積んだ人たちについては3つの可能性がある。
ひとつは,沖縄本島の糸満からやってきて西表島の海岸で漁をした可能性。近隣の島々(鳩間島,小浜島,波照間島)に住んでカツオ漁を行った漁師たちには,糸満出身の方々が多かったようである。その中に西表島に来て追い込み漁をしたかもしれない。ただ,沖縄本島から西表島までサバニで来るのは,遭難する危険が高い。石炭や木材を運ぶ輸送船に,サバニともども乗せてもらって白浜まで来たのだろう。
2つ目は,石垣島から移り住んだ可能性。3つ目は,もともと西表島に住んでいて,農作業の合間にサバニで海岸に出て漁をしていた人たちが魚を捕って,炭鉱労働者とその家族に提供したという可能性もある。どの可能性が一番高いかは,さらに詳しい調査が必要である。
いずれにせよ,漁師たちは大正時代(1910~1915)から昭和18年(1943)ごろにかけて西表島で追い込み漁やしかけ網漁をしたと思われる。とすると,小石の列は大正時代の初めごろに作られたのではないだろうか。1910年~1915年に作られたと考えると,105年から110年が経過していると推定される。
一方,一時は盛況だった宇多良炭鉱も長くは続かなかった。太平洋戦争が始まると,多くの労働者が軍隊に召集されて,炭鉱で働く人たちは少なくなった。つまり,魚を捕っても売れなくなってしまったのだろう。
もし糸満から来たのであれば,戦争の旗色が悪くなりかけた昭和18年(1943)ごろには,家族ともども糸満に引き上げたかもしれない。もし家族で糸満に引き上げていたら,次の年にはアメリカ軍の猛攻を受け,どれほどの人たちが生き残ることができたのか,想像することが難しい。石垣島から来ていたのであれば,やはり戦局の悪化と魚の売り上げの減少で郷里に引き上げ,石垣島で漁を続けたのではないだろうか。西表島であれば,住居のある祖納や白浜に戻って,農作業に従事したのではないかと思う。
船浦には,ヒナイ湾を横切る直線道路ができている。道路の西側の端から海岸に下りると,すぐにフナウライシアナジャコの生息地がある(図3)。さらに海岸沿いを西に向かって30分ほど歩くと,砂浜の上に石垣の一部が残っているところがある(図5)。
私は,この場所(図5)が,西表島で追い込み漁をやった人たちが住んでいた家の跡ではないかと考えている。遠浅になっているので,海からはサバニでないと近づけない。漁にはサバニが使われていただろう。魚が売れなくなってから住処を去って,おそらく80年は経つだろう。大潮の時に台風でも来れば,家の中は水浸しになる。住居は海岸にあるリュウキュウマツ,モクマオウ,ハスノハギリ,ガジュマルの幹で作られたであろう。粗末な家屋では,築後50年もすれば跡形もなくなり,石垣の一部だけが残っていても不思議ではない。