生物多様性研究・教育プロジェクト Natural History Science(自然史科学)2025‒No. 2: 1954年から1972年までの西表島

2025年3月6日(木)

<初めての八重山諸島探検>
 私が大学に入学したのは,1970年の春。初めて西表島に行ったのは翌年(1971)の3月だった。1970年と言えば,大学紛争は最盛期を過ぎたとはいえ,まだ活発であった。大学構内には,多くの学生が押しかけてデモの渦ができていた。先輩方の中には,デモに参加して逮捕され,何日間か留置場に入った者もいた。自宅通学をしている学生(特に女子学生)の場合には,夜になっても子供が帰ってこなければ,親は大そう心配したに違いない。
 私も大学に入学した年は,大学紛争の影響を受けた。他人に誘われて何回か学内の集会に出たことがある。しかし,全共闘学生の出す「何とか新聞」の記事は,何度読んでも頭に入らなかった。そんな時に哲学科だったかの女子学生に,本当に入りたかったら来たらよいが,中途半端に参加するなと言われ,そこで目が覚めた。その1~2年後には,全共闘の内部で激しい内ゲバが始まり,大けがをする学生も出た。ちょうど良いタイミングで大学紛争から足を洗うことができたのはラッキーだった。 
1970年と言えば,学生の間では沖縄旅行が流行っていた。ちょうど2学年上の上級生が沖縄(那覇)から来ていたこともあって,沖縄本島を経由して西表島の探検について行った。この時の経験が以後の私の研究人生を決めることになった。
 私が初めて琉球を訪れたのは,1971年3月だった。まだ1ドル360円の時代であった。船(那覇丸?)は,今記事を執筆しているのと同じ日(3月6日)の昼過ぎに晴海ふ頭を出港した。1日目は高知沖あたりで日が暮れたと思う。太平洋のうねりは高く,11人中10名が船酔いでダウンした。2日目は奄美大島付近を航行し,沖永良部島のあたりで日が暮れたと思う。私は,2日目は全く起き上がれず,船の中で荒波を砕く音を聞きながら,船酔いと必死で戦っていた。3日目になるとやっと起き上がって歩けるようになり,船の前方を海面すれすれに滑空するトビウオの姿を見ることができた。伊江島の特徴的な姿も眺めることができた。船は那覇港に3月8日の昼頃についたと思う。
 那覇では,2日間ほど滞在し,3月10日の夕方に石垣港に向けて出港したかと思う。夜はうねりが高く,晃々とした月明かりの中に高波が次から次に押し寄せ,波を砕く際のしぶきは2階のデッキにまで飛んできた。波をかぶってびしょ濡れになった者もいた。船は,3月11日の午前中に石垣港に着き,午後からバンナ岳入り口の三叉路のところで昆虫採集を行った。その時に見たリュウキュウアサギマダラの姿は忘れられない。石垣に一泊して次の日(3月12日)に第三幸八丸に乗り,西表島に向かった。

図1.ランタナの花にとまるリュウキュウアサギマダラ。リュウキュウアサギマダラは,琉球列島では普通に見られるチョウである。1971年3月11日に石垣島についてから,バンナ岳の入り口までタクシーで行った。タクシーは基本料金が50セント(仙)で,片道料金は2ドルぐらいだっただろうか。今(2025年)だと,3,000円ぐらいはかかりそうだ。当時はバンナ岳の入り口の道路の両側には田んぼがあって,リュウキュウアサギマダラ・タイワンキチョウ・ウラナミシロチョウ・ヤエヤマウラナミジャノメ・ミカドアゲハ・アオスジアゲハなどが飛んでいたと思う。イシガケチョウもいたかもしれない。とにかく,見るものすべて初物だから,南の国にはこんな素晴らしい世界があるのかと感動した。現在(2025年)は,三叉路の周囲は道路が拡張され,広い公園ができている。多分こんなところで捕虫網を持って昆虫採集をする者はいないだろう。リュウキュウアサギマダラの撮影は鳩間島(2024年6月30日)。琉球弧(普通地域)で昆虫採集をするのならば,春(3月から4月)が良いだろう。

図2.現在(2025年)の西表島。石垣島の埠頭から西表島に渡る航路は,大原航路と上原航路の2つ。上原航路は鳩間島を経由する便もある。私が初めて西表島に行った時には,上原航路はなかったと思う。すべて白浜についたと思う。私たちが10日間ほどいた干立(ほしだて)の集落は,白浜から歩くと1時間以上かかる。第三幸八丸が白浜に行く途中で干立の浜に立ち寄ってもらい,そこで船から降りた。今は許可にはならないが,1971年には干立の公民館に一週間ほど滞在し,3月20日ころから浦内川沿いの横断道(今は道がない)を通って古見に出て,それから徒歩で大原まで来たと思う。今は西表島に行くときには,琉球大学熱帯生物圏研究センター(琉大熱研)に滞在して研究を行っている。

図3.琉球政府の出した西表島開発計画(1962年5月7日)。琉球列島は戦後長らくアメリカ(USA)の統治下にあり,アメリカのリーダーシップの下で開発計画が策定された。白浜は戦時中まで石炭の採掘でにぎわっていたが,戦後は人口が減り,小さな集落として残っている。舟浮には戦時中は大砲が置かれていたが,戦後に撤去された。舟浮には黒真珠の生産工場があり,現在でも営業されている。白浜から仲良川沿いに真珠貝の養殖場まで行く道があったようだが,現在はなくなっている。白浜のすぐ南側には住居跡が残っており,川にはビール瓶や生活用品がたくさん捨てられていて,ヘドロが50cm以上の厚さに堆積している。原図は沖縄県公文書館に保管されている。

図4.1972年の西表島(琉大ワンゲル部の作成)。地形や方角はあいまいだが,西表島の道路状況と集落や川の名前を知るには便利である。天然記念物の名称も記してある。沖縄の返還は1972年であり,琉大ワンゲル部はその年に西表島の探検に来たと聞いた。私たちも1972年の7月から8月にかけて,2回目の八重山探検をしており,ワンゲルの人たちとは大原の宿泊所で会ったと思う。言葉を交わすことはなかった。1972年には,植物学科の学生(5~6名ぐらい?)も西表島を訪れていた。琉大のワンゲルの学生たちも植物学科の学生たちも,統率力のあるリーダーの下できびきびした行動を取っていた。私たちは特にリーダーもなく,自堕落で行き当たりばったりの行動だった(最後は分解した)のと比べると大違いである。私は性格的にリーダーの統制下で行動するのは好きではない。自分勝手だとよく言われるが,その通りである。私は自分が興味を持ったことについて,人とは距離を置いて,自分なりに懸命に課題解決に取り組む人生が性に合っている。

図5.1954年12月の西表島(白浜)。母親が芭蕉を織って何かを作っているところ。右側2名の子供たち(6才と3才ぐらいか?)は,靴を履いている。前方に見えるのは内離島(ウチパナリ)。撮影された場所は,家の中ではなく隣接した納屋と思われる。この場所が白浜集落のどこにあったのか,現地に行けば場所を特定できるが,当時の家屋はもうないだろう。外に薪が積まれているので,炊事をしたりお風呂のお湯を沸かしたりに使っていたのだろう。沖縄県公文書館所蔵。

図6. High Commissioner Inspecting Iriomote (西表島を視察する高等弁務官)。1961年11月26日。議論するためには,私だったら高等弁務官と並んで防波堤に腰かける。これでは先生の前でうなだれて説教される子供たちみたいだ。戦前の二の金教育・お手本教育・官僚育成教育は,日本の社会に人の平等ではなく,組織の間の上下関係をより強化するために役立てられた。二の金教育・お手本教育・官僚育成教育は戦後も継続し,今は受験教育に形を変えて存続している。日本人は戦わずして,こんな制度で国を運営するのでは,国家は弱体化する。ちなみに,図5に示した家は,写真左側の瓦屋根の手前の家屋ではなかろうか?

図7.1966年3月の白浜集落(3月8日に撮影)。集落内の旧道は今も残っている気がする。1971年にはこの道を通っているかもしれない。中央の自転車は大人用なので,女の子が乗るのは無理。写真撮影のために,家から自転車を押して出て来てくれたと思われる。右には,すごい形状の電柱が見える。現在(2025)は,道の両側の家屋はすべてリニューアルされ,新しい道路(トンネルから続く道路)が海側(写真右)に作られ,さらに道路の外側(海側)が埋め立てられて広場になっている。湾の埋め立てと相前後して,集落の人口は激減した。(写真は沖縄県公文書館所蔵)

図8. 1962年10月1日CHILDREN OF KOMI SCHOOL, Iriomote Island, Yaeyama Group of the Ryukyus, examine school books which were among the gifts presented by High Commissioner Paul W. Caraway today, Oct. 1. Children at the Komi School (古見小・中学校) look at books, which were among the gifts presented to the school by Lt. Ge. Paul W. Caraway High Commissioner of the Ryukyu islands, during his tour of the Yaeyama islands. まだみんな生きているだろう。古見にいるかは不明。

図9.美田良にある水田から祖納の集落に戻る農家の人たち。水牛は鞭がなくても,人が牛車に乗れば勝手に水田の方に歩き,農作業が終わって牛車に乗れば勝手に祖納の集落に向かって歩き始めるのではないだろうか?つまり,自分の一日の行動パターンを記憶していると思われる。水牛にも認知症はあるだろうから,この病気にかかると,鞭を使ったコントロールが必要になると思われる。右側の山の向こうには白浜の集落がある。写真は沖縄県公文書館所蔵。1966年3月8日。

図10.1966年当時の海上交通(3月8日)。左に見える島は鳩間島ではなかろうか? すれ違う船は美山丸。2~3トンぐらいの船である。私が石垣港から西表島に行った時には第三幸八丸に乗った。

図11.鳩間島から石垣港に向かう東海丸。東海丸も美山丸や第三幸八丸と同じぐらいの総トン数。学生はとんでもないところに並んで腰かけている。

図12.ヘリコプターから見る浦内川の河口(撮影日は不明だが,1954年あたりの写真ではなかろうか?)。HICOM Visits Yaeyama. Iriomote-jima.
浦内橋が完成したのは1970年なので,それまでは住民は干潮時(low tide)に徒歩で浦内川を渡っていた。
写真は現在の浦内橋の上空から北側にある河口が写っている。中野(右)や住吉地区(中央)の周辺には人家がほとんど見られない。
浦内川は,1950年から2000年に掛けて水量が低下したのだろうか?河口域のマングローブ林は川の縁に押し込められているが,2004年の調査では河口の中央付近までヤエヤマヒルギやメヒルギの群落が見られた(図19)。
浦内川の河口は,写真左側が深くなっているので,大潮(spring tide)の干潮時(low water)でも川の中央ぐらいまでしか歩いて行けない。川の左側の山に行こうとすれば,手前にある干立(ほしだて)の集落から海岸沿いを歩いて来るしかない。ただ,西表島は北西方向に向かって少しずつ海に潜りながら移動している。そのため西部の海岸沿いには絶壁が続いていて,河口の小山も例外ではない。
泳いで渡ることもできるが,対岸の岸に着いても,砂岩の絶壁が立ちふさがる。結局泳いでまた元の場所に戻るしかできない。左側の川岸の砂岩は硬そうなので,イシアナジャコが住み着けるかどうか不明である。

図13.現在(2025年)の浦内川の河口域の地形。かつては県道215号から徒歩で浦内川に出る小道があったが,今はない。浦内川には「稲葉」という集落があって,子供たちはこの道を通って祖納の小・中学校に通学していたのかも知れない。しかし,大雨で川が増水したときには大変危険な道になっただろう。

図14.昔の与那田橋。この橋は1971年と1972年に西表島に行った時にはまだ使われていたと思う。1972年の夏に台風が近づいた日に,傘をさして祖納まで行こうとして,橋にさしかかったとたんに強い風にあおられて傘が裏返ってしまった記憶がある。今は新しい橋ができている。

図15.浦内川の河口を歩いて渡る人たち。1966年3月8日。写真の説明には「琉球政府関係写真資料」としか記されていないので,この人たちがどういう人たちで,どのような目的で西表島を訪れたのか不明である。浦内橋は4年後の1970年に完成した。写真の右端のあたりに架けられた。

図16. 浦内川河口を小舟で渡る調査員の人たち。1966年3月8日。中野あたりで船を出してもらったのかも知れない。1966年には河口の真ん中にはヒルギ林はなかった。写真の左の大きな岩に腰かけている人がいるが,この岩は2004年にはなくなっていたかもしれない。あるいは泥の中に埋もれたか?

図17. 浦内川河口から祖納方面を望む。2004年11月撮影(干潮時)。図18の写真とほぼ同じ位置から撮影している。(厳密に言えば,10~20m左に寄ったあたりになるが,それだとヤエヤマヒルギが邪魔になって正面が見えなくなる。1966年にはヒルギはなかったが,2004年にはヤエヤマヒルギとメヒルギの群落ができかけていた。中央の奥には祖納の鉄塔も見える。泥干潟の上にある小さなマウンドは,小さなスナモグリ(Calianassa bouverii)が作ったもの。

図18. オキナワアナジャコ。オキナワアナジャコは,河口域の土手に大きな塚を作って住んでいる。岩の上に腰を下ろしている人が,干潮時にマングローブを歩いて,塚の中から泥をすくって塚の外に出しているところを捕まえたのだろう。こんな採集の仕方を知っている人は少ない。また,スケールが足の形であるところが面白い。この人たち(図18)は,西表島の地層調査に来ていたのかも知れない。このオキナワアナジャコの個体の鋏脚(かんきゃく)は,左に比べて右が大きい事に注意していただきたい。

図19. オキナワアナジャコ(2017年5月に撮影)。 体長20cmほどの大きな十脚甲殻類。エビでもないし,ザリガニでもないし,ロブスターでもない。ハサミシャコエビと同様にThalassinideaというグループ(下目)に属する。熱帯域の河口に広く分布しているが,種類数は少ない。琉球弧には1種類のみが分布していると思われる。この個体は古見の田んぼの脇にある塚(マウンド)で採集された。第一歩脚(鋏脚)は,左側よりも右側がずっと大きいことに注意。

図20. マングローブにおける十脚甲殻類(decapod crustaceans)の採集。マングローブの中は軟泥層(いわゆるヘドロ)が堆積している。ヘドロは微粒子で構成されていて,水はけが非常に悪い。そのため泥の表面(黄色の薄層)を除いて,軟泥層の中は酸素が行きわたらず,穴を作って呼吸ができるゴカイ(環形動物)とかスナモグリ(節足動物)しか生活できない。ヘドロの層は還元化していないので,灰色をしている。ヘドロの中は酸素がないので,化学合成細菌とか,外から水を入れる穴を作る動物ぐらいしか住むことができない。その意味では,深刻な海洋汚染のひとつと言えるだろう。ヘドロの堆積は瀬戸内海や有明海で発達している。

図21. 浦内川のマングローブで採集されたオキナワアナジャコ(2004年11月)。河口域の水際でベイト・ポンプを使うと,小さな個体を採集することができる。この個体も右側の鋏脚が左に比べて大きい。オキナワアナジャコは,10年は確実に生きると思う。20年生きても不思議ではない。

図22. オキナワアナジャコ(Thalassina anomala)の胸部と腹部。第一歩脚(鋏脚)は,第2歩脚の後ろに隠れて見えにくくなっている。第2歩脚も,左に比べて右が大きい。第3歩脚ぐらいまで,左右性(laterality)がみられるのではなかろうか?私の専門は,十脚甲殻類の体制(organization)に見られる左右性(laterality)の発現機構と進化である。十脚甲殻類(エビ・カニの仲間)は,鋏脚を中心に左右性の宝庫である。なお,オキナワアナジャコの起源は,ヤドカリやカニとは大きく異なる。

図23.オキナワアナジャコの生息場所(habitat)。古見のマングローブの脇にある水田の畔に大きな塚を作る。塚はだいぶ壊されているようだ。トラップをかけて2匹ほど採集したが,農夫に見つかって取り払われてしまった。オキナワアナジャコは天然記念物には指定されていないので,普通地域では採集可能である。

図24.浦内川河口の泥干潟における生物の採集。泥干潟での生物採集は,スコップとベイト・ポンプを使って行われる。泥干潟の土壌は,表面は黄土色をしているが(oxidized sediment),数ミリも掘ればRPD zoneが現れる。色はグレイ。酸素濃度はほぼゼロ。有機物が化学合成細菌によって分解されると,硫化水素,アンモニア,メタンが発生する。土壌は還元層(anoxic zone)となって,黒色に変わる。還元化が進行すると,土壌は悪臭をともなう。

図25.泥岩に掘られたイシアナジャコの巣穴。川沿いの土手にある岩から剥がれ落ちて泥干潟に落ちていたもの。土手にある時にはイシアナジャコが住んでいたが,巣穴の表面の色からして,イシアナジャコはつい最近に別の場所に移ってしまったのだろう。逃げ出してから1か月も経っていないと思われる。

図26.平野優理子氏が命名したUpogebia iriomotensis。Upoはタガログ語で「ひょうたん」,Gebiaはギリシャ神話に出てくる「大地の神」の意味。Iriomotensisは「西表で採集された」という意味。西表島のマングローブ干潟にある泥岩にすむが(個体数は多い),西表島の固有種かは不明。Upogebia属のアナジャコは形態的に雌雄の違いが大きい。写真の個体はメス。イシアナジャコ属(Stonogebia)が新設できるか現在検討中。いずれにしても遺伝子情報が不可欠である。

図27.ヤエヤマヒルギの気根の上に腰を下ろす南里敬弘氏。ヤエヤマヒルギの気根は想像以上に硬く,本種が密生する泥干潟に入ると出てくるのに大変苦労をする。図18と図19を比較するとわかるように,ヤエヤマヒルギやメヒルギの分布は,満潮時の泥干潟の潮位(tide height)と強くかかわる。植林をするのであれば,前もって泥干潟の潮位をよく観察した方がよい。沖縄本島の塩屋湾のメヒルギ群落はうまく育っていない。なお,南里敬弘氏は,環境汚染の研究がやりたくて私の研究室を選んだ(都立高専から編入)。現在は環境アセスメントの会社で働いていると思う。もう10年間も会っていない。2004年11月撮影。

<参考文献>

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  • 生物多様性研究・教育プロジェクト 自然史科学 2025‒No. 1:自然史科学(natural history)の研究に必要な能力
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<記事の執筆に関する情報>
記事の執筆:三枝誠行(生物多様性研究・教育プロジェクト常任理事,理学博士)
撮影に使用したカメラ:PENTAX K‒rに75mm‒300 mmのズームレンズ(Tamron)をつけて使っていたと思う。

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