2023年12月16日(土)
1.Introduction
11月に入ってから原著論文の作業が忙しくなった。英語で執筆することもあり,とにかくパソコンに向かって考える時間が長い。論文の構成を考える「助走期間」も入れて,書いては消しを繰り返していると,原稿が完成するまでに3か月かかる。さらに,四苦八苦しながらやっと書き上げても,パブリッシュするまでにはまた長い時間がかかる。なぜ」そんな苦行を続けるのか? 答えは簡単。何もしなければ,もっと大きな苦痛(何もしないという苦痛)が待っている。私は性格的に,何もしないということは耐えられない。
一方,パソコンの前で集中できる時間は限られる。執筆中は,ちょっと難所があるとすぐに気持ちが途切れる。すると,自分の指は自分の意思とは無関係に動き,いつのまにか娯楽記事や娯楽番組をクリックしている。皆さまにもそんな経験がたくさんあるだろう。
先日執筆の合間に,ABEMAで「ナスDの大冒険TV」という動画を見た。第127話は「クン・ラの峠→富士山と同じ標高にあるニザール集落に到着!編」だった。120年前にネパールの奥地に単独で分け入り,クン・ラ(「ラ」は峠の意味)を越えてチベットに向かった河口慧海(1866–1945)の歩んだ小道をたどるという企画だった。
河口慧海は,チベットで植物標本も集めたとどこかに書かれていた。生物学に関心をお持ちだったかもしれないと思い,少しばかり調べてみた。結果は,生物学とは無縁の人で,仏教学者・探検家・収集家だったようだ。なぜチベットに行ったのか,私にはよくわからないが,チベットには仏教の真の道があると思ったのだろうか?ネパールにしばらく滞在した後に,ジョムソンからドルパ県に入り,標高4,000m以上の峠をいくつも越え,ツァルカ村に入った。そしてテンギュー村,シーメン村を経て,最終的にはニサル村の付近の川沿いを登り,クン・ラを越えた。
ネパールからヒマラヤ山脈の峠(標高5,000m)を越えてチベットに出る道は他にもあっただろうが,当時はチベットの厳しい鎖国政策でどの峠も越えるのは難しかった。慧海が探し出したのは,クン・ラを越える道であった。慧海は,クン・ラを越えた後にチベットの道を延々と東に歩き,ラサ(中国語:拉萨)に滞在したようだ。
河口慧海の歩いたジョムソンから奥ドルパの山々(超高山帯)はどんなところなのか?ABEMAの動画ではわかりづらいので,google mapとgoogle earth proを利用して足跡をたどってみた。
なお,Google street viewには,投稿された写真は著作権で保護されている場合があると書かれている。インターネットに出ている写真を掲載すると,無断引用で処罰の対象になる可能性がある。そのような写真については,読者が個別にインターネットにアクセスしてみていただければよい。なお,Google mapやgoogle earth proの写真を学術目的で利用することは許されていると思う。
2.撮影と執筆の基本情報 <記事の執筆> 三枝誠行(生物多様性研究・教育プロジェクト常任理事)
3.参考文献 大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる(https://www.yamakei-online.com/yama-ya/group.php?gid=21)
図 1.河口慧海が越えたヒマラヤの尾根。慧海がネパールに行った 120 年前は,チベット(現在の西藏自治区?)は鎖国を強化していたようだ。ヒマラヤ山脈の尾根を抜けてチベットに出る小道(シルクロードではない)は昔からいくつかあっただろうが,どの道も強硬なラマ僧によって追い返されたようだ。慧海は,しばらくネパールに滞在し,ヒマラヤの峠(ネパール語では「ラ」)を越えられる道を探した。その結果,候補に挙がったのが,北側にある「クン・ラ」だったと思われる。しかし,クン・ラを経由するのは,大変な大回りになる。まずは,ジョムソン(ムスタン県)まで行き,そこから北西の方向に山を登り,尾根に出てからドルパ県の数々の峠(標高は,4,000m 以上)を越える。さらにいくつかの村を抜け,クン・ラに至るまでは大変な道のりである。しかも,ヒマラヤの尾根は,亜高山帯も高山帯よりも標高の高い「超高山帯」(という用語はないが・・・)に属する。気圧が低いばかりか,夏でも気温は低い。さらに,ナス D の動画を見るとわかるように,高山では強烈な紫外線を浴び,顔や首は結構な火傷を負うことになる。
図 2.河口慧海が歩いたドルパ(ネパール)からラサまでの地形。慧海はネパールの首都であるカトマンズに立ち寄り,ラサに抜ける道の情報を集めた。結果として,西に行けばチベットへの道が開けると判断し,馬に乗って出発した。そして,カリ・ガンダキ(川の名前)の大峡谷を川床に沿って進み,ジョムソンの対岸にあるムクチナートに立ち寄り,再びマルファに戻り,それからツァーラン村に向けた急な登りにかかった。
現在では尾根まで車道ができているが,当時は歩いて登る狭い小道しかなかった。もっとも,現在でも車道は 2 輪車ぐらいしか通らないだろう。みんな基本的には,家畜を連れて車道を歩く。尾根に出たらツアーラン村までは,いくつも峠を越える。いずれも標高は 5,000‒5,500m ほどの超高山帯である。慧海はツァーラン村に着き,村で 10 か月間村長の仏堂に滞在し,冬を越したようだ。雪解けを待ってテンギュー村に向けてツアーラン村を後にした。テンギュー村からシーメン村に行き,川沿いから尾根道に迂回しニサルに着いた。
<参考文献>奥山直司(2022)チベットに渡った禅僧 河口慧海。高野山大学一般教養科目公開講座
(http://www.osaikikj.or.jp/jyukunen/sub130x34x01.htm)
図 3.川口慧海が歩いたドルパの地図。
ムスタン県やドルパ県からヒマラヤの尾根を抜けてチベットに抜ける小道はいくつもある。慧海は,それらの中でラマ僧に一番見つかりそうにない道を探したと思われる。
慧海がジョムソンから入ってクン・ラに抜ける往路については大体正しいと思われるが,復路については該当する記事の著者が歩いた道かもしれない。
いずれにしろ,標高 3,500m から 5,500m の超高山地帯を歩くのは,周到な計画が必要である。途中で高山病にかかった場合には,登山を中止してジョムソン
かマルファに引き返すことになるだろう。引き返す体力が残っていない場合には,残念ながら「行き倒れ」という事態になりそうだ。ナス D のカメラマンは無事に日本に帰れたのか?
なお,ドルパの地図は「大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる」に入っていた原図から描き直した。峠(pで示す)等の標高に関しては,拡大鏡を使っても判別不能だったので,それらしく見えた数値を記入している。
図 4.ジョムソン空港。ル・クラほどではないが,離発着にはそれなりのテクニックが必要らしい。標高は 2,737m。カリ・ガンダキは,渓谷か川の名前と思われる。ヒマラヤだと,渓谷は V 字谷になるのか U 字谷になるのか不明。Google earth を見ていると氷河みたいなところはあまり見られなかったので,V 字谷が多いかもしれない。カリ・ガンダキの右側にある耕作地では,どんな野菜が作られているのだろうか?耕作地で作られた野菜類は結構な割合で,数多くある僧院に寄付されていると思われる。仏教の世界では僧侶が大事にされているようだ。なお,私は僧侶の大半は嫌いである。
図 5.ジョムソンからドルパに入る道。いきなりとんでもない急斜面を登る。ジグザグ上に尾根に向かっているのは車道。その上にある細い道は歩道。車道と言っても,たまにバイクが通る程度だろう。歩く距離は長くなるが,車道は歩道よりも歩きやすく,ヤクや馬,羊などを連れた人たちは,車道の方を利用している。・・・ということは,歩道の方は廃道になるのは時間の問題である。河口慧海がドルパに来てからすでに 120 年経っている。その間に新しい道ができたり,古い道が崖崩れで消滅したりということは数多くあったと思われる。だから,慧海がドルパのどこをどう歩いたかを正確に言い当てるのは難しいかもしれない。現在の道(昔とそんなに変わっていない)を歩きながら,足跡をたどったということでいいのではないか?
図 6.ジョムソンからドルパに行く道の標高。ジョムソンから尾根まで 2,000 m 近くも登らねばならない。このあたりだと高山帯になるだろう。
図 7.ムスタン省からドルパ省に入ったあたりの峠(5,220m)の風景。右上にツァルカ村の表示あり。このぐらいの標高になると,馬は連れて行けない。パーティーを組んで行くならヤクに荷物を積む。一人で行くなら,2~3 匹のヤギに荷物を預ける。空気は薄く,先を急ぐと高山病にかかる。
図 8.ツァルカ村。標高は 4,294m。渓谷沿いは尾根筋に比べて多少気温が高く,低木(ヤナギが多いと思う)なら育つかもしれない。野菜も寒冷地に強い品種であれば夏に収穫できる可能性がある。ツァルカ村の人口はわからないが,小学校はあるだろう。右上の青い色の屋根の建物が学校だと思う。僧院ではないと思うが・・・。こんな環境だと,子供たちは遊びに行くところがない。どっちの方向に遊びに行っても 1 km も行かないうちに遭難してしまいそうだ。緑が芽吹くのは夏の間に限られる。10 月から翌年 4 月までは外は寒く,家にこもりきりになりそうだ。病気をしたらどうするのだろうか?
図 9.ツァルカ村からテンギュー村へ。あちこちに仏教寺院がある。しかも,とんでもない場所に・・・。シーメン集落の表示が見える。
図 10.テンギュー村。テンギュー村は比較的大きな集落である。左上の青い屋根の建物は小学校だろう。また,左上の文字が切れているところは,clinic(病院)。テンギュー村はいいとしても,シーメンやニサル,あるいはその付近の小さな集落で病人が出た場合には,屈強な人がおんぶしてテンギュー村の病院まで連れてくるのだろうか?畑で作っているのは小麦か大麦であろう。畑の色からすると,収穫の時期が近付いているのではなかろうか?写真の上側から流れ込む支流には橋がかかっているが,中央を横切る本流には橋がないように見える。対岸には多少の耕作地も尾根に行く道もある。
図 11.シーメン集落。標高は 3,910m。朱色の屋根の建物は,ひとつは小学校、もうひとつは僧院か?村の周囲には耕作地があるが,薄茶色をした畑は,収穫後を示していると思われる。川沿いは水もあり,気温も少しだけ高いのだろう。ヤナギの低木が並んでいる。ヤナギを食草とする昆虫はいるのだろうか?世界のもっとも標高の高い高山帯に生息するチョウをインターネットで検索したが,日本の話しか出てこない。私の勘では,チョウは標高3,000m 程度,甲虫類は 2,500m ぐらいが限界と思う。ハエ・カ・アブ・ブヨ(双翅類)については,5,000m 以上の超高山帯にも分布している気がする。
図 12.シーメン村からニサルに行く川沿いの道。標高は 3,884m。川沿いの道はニサルまで通じているか不明。シーメンから出たあたりはよいが,途中は急峻な崖になっていて,通行に危険を伴う箇所がある気がする。ちなみに,慧海はこの道は歩いていない。多分ヒツジを数匹連れて行っただろうから,こんな崖の道を歩くのは難しかったに違いない。ヤクは高価だし,チベットに抜ける際にニサルで手放す必要があったのかもしれないし・・・。
図 13.シーメン村から峠を越えてニサルに続く道。慧海はシーメンからは川沿いの道を行かずに,尾根筋に出る道を行ったようだ。この道なら,時間はかかるが,ヒツジを連れて歩ける。馬ではこんな斜面はとても無理だろうし,夜間の気温の低下にも耐えられないだろう。ヒツジは毛が‘もさもさ’している品種であれば,低温に耐えられるかもしれない。しかも,動物が 2~3 匹一緒にいると,旅するときに(特に夜)元気が湧く。
図 14.シーメン村から峠を越えてニサルに続く道。左側はシーメンの集落。ニサルに行くにはこの橋を渡って尾根筋に登ればよい。橋は集落の手前にもうひとつある。その道もやはり尾根に通じているようだが,どこに行くか不明。100 年もすれば,バイクで行けるぐらいの道幅に拡張される可能性はあるが,車が通れる道は不可能ではなかろうか。集落の子供たちは毎日何をして暮らしているのかも,すごい気になる。
図 15.シーメン村から尾根筋へ。尾根筋にはいくつか集落がある。ナムド峠からナムドに下り,橋を渡って下流に行けばニサルに着く。
図 16.尾根筋にあるコマとコベの集落。標高は 4,200m だろうか?人々はどんな生活をしているか,大変気にはなるが,見に行く訳にもいかない。
図 17.ニサル方面(今まで来た道)と奥の集落(ルリ)への分岐点。慧海は橋 1 と橋 3 を通ってニサルに行った。ニサルでヒツジを手放したか?
図 18.ニサル村。標高 3,851m。富士山頂とほぼ同じ標高。人々はどうやって水を得ているのか?学校に来るのはニサル集落の子供たちだけなのか?
図 19.クン・ラへの登り。ニサル集落の数百メートル下流にクン・ラへの登り道がある。登り口は日陰になっていて,画像は真っ黒になり,判別できなかった。標高 4,600m 付近までは深い谷(V 字谷)沿いの道を歩かねばならない。こんな危険な道を,ヒツジを連れて登るのは無理かもしれない。
図 20.クン・ラへの登り。標高 4,700m あたりになると,V 字谷から U 字谷に代わり,川底を登るようになる。薄茶色は歩道,白い筋は川。空の下に見える黄色の実線は国境を示している。手前がネパールで,奥が中国。国境と思われるところの標高を調べたら 5,425m だった。なお,クン・ラの表示はgoogle earth にはない。隣(右側;写真には入っていない。)にラル・ラがあって,その表示は出ている。ラル・ラも通れると思うが,道らしきものが見当たらない。クン・ラの方はネパール側の道,中国側の道,ともによく確認できる。多分地元(ネパール)の人たちがよく使っているのだと思う。
図 21.クン・ラからチベット方面を望む。なぜここがクン・ラと判断したかというと「ナス D の大冒険 TV」で,クン・ラと紹介された動画で,右にある小山(突起)が,大冒険 TV で出てきたのと同じだったからである。ただし,ナス D が立った国境標識のコンクリ柱はいくら探しても見つからなかった。峠からは中国側にも明瞭な道が見える。奥ドルパの人たちは,時々クン・ラを抜けてチベットに入り(密入国),チベットの集落の店で食料や酒を買ってネパールに戻るという生活をしているのだろう。今は,冬の期間はジョムソンからカトマンズの都会に出稼ぎに行く人が多いのではないか?
図 22.チベットにある標高 4,500m から 5,000m の池。河口慧海の記事を書いていて,気になっていたことがある。それは,標高 4,000m から 5,500m の超高山帯にはどんな生物が生息しているかという疑問である。ナス D は,クン・ラへの登りの途中で,水生昆虫を 2 種類採集し,「足がたくさんある」みたいなことを言っていた。ナス D の見た昆虫は,一方がカゲロウの幼虫,もう一方がカワゲラの幼虫である。カワゲラの幼虫はイモムシ様なので,付属肢の数は外観では不明であるが,カゲロウの方は幼虫時から足が 6 本(3 対)のような気がする。6 本が多いとみるかは,見た人の印象にかかっている。無翅昆虫亜綱(Apterigota)(トビムシ・コムシ)や,有翅昆虫亜綱(Pterigota)のカゲロウ目(カゲロウ),カワゲラ目(カワゲラ),双翅目(カ・ハエ・ブヨ・アブ)は,標高 4,500m から 5,000m の渓流,池,落ち葉の中にいるだろう。一方,淡水魚についてはどうか?インターネットで検索すると,チベットの標高 5,000m にあるプマヨモツォという湖(場所不明)にハダカゴイという鱗のない種(コイ科)が生息しているようである。ハダカゴイは今のところ,世界でもっとも標高の高い湖に生息する淡水魚である。ユーラシア大陸では,コイ科の淡水魚の適応放散(diversification)が目覚ましい。