生物多様性研究・教育プロジェクト「進化生物学の研究」  2026‒No. 3: 初めての西表島旅行‒その Ⅰ (喜んでばかりいられない。)

2026年3月19日(木)

1971年(昭和46年)3月6日

 私が大学に在籍したころは,夏休みと春休みの期間は長かった。授業期間(セメスター)は前期と後期に分かれており,夏休みは7月16日から9月15日までの2か月間,春休みは後期試験の終了後(2月下旬)から新学期の授業が始まる4月10日前後までで,やはり2か月近くあった。今だったらみんなアルバイトに精を出すだろうが,私は野外に出て遊ぶ方(昆虫採集とか・・・)が楽しかった。
 大学1年の終わりの春休み,3月6日の船(琉球海運の「おとひめ丸」)に乗り,晴海ふ頭を離れた。13時頃の出港だったと思う。船は若者たちで満員であった。船に慣れた人たちは直ぐに船室(二等船室)で横になっていたが,船酔いの怖さを知らない私たちは,散策と称して船の中をあちこち走り回っていた。船は夕方高知沖に達し,18時だったかに夕食の時間になった。夕食にはカレーを食べた記憶があるが,激しい船酔いの中でやっとの思いで食堂にたどり着いて食べたのだろう。多くの若者と同様に,私もたぶん戻したと思う。やっとの思いでトイレに行くと,床は便器に化していた。元気な者は風呂に行ったが,風呂のお湯がチャポン・チャポンと激しく揺れて,湯船から飛び出したとのこと。
 船は3月7日の明け方に屋久島や種子島,さらに日中にトカラ列島から奄美大島付近を通過した。速力は15ノット(時速30 km弱)ぐらいだっただろう。午後に甲板に出てみると,生暖かい風が吹いてくるのを感じた。船の前方からはトビウオの群れが海面を滑空している姿を見ることができた。3月7日はほぼ一日船室でゴロゴロしていた。オレンジか夏みかんでも買って船に乗り込めばよかったと思ったが,こんなにも船酔いがつらいとは全く予想していなかった。
 3月8日の朝にはやっと歩ける状態になった。看板に出ると与論島,伊平屋島,伊是名島,続いて伊江島や瀬底島の姿を見ることができた。船は伊江島と本部半島の間を抜け,昼に那覇港に着いた。沖縄本島では,上級生の座間味真さんの家(首里)に2泊した。
石垣島に向けて那覇港を発ったのは3月10日の昼過ぎだったように思う。石垣行きの船(琉球海運の「ひめゆり丸」)は,晴海ふ頭と那覇港を往復する那覇丸よりも一回り小さく,航行中は大きな揺れに見舞われた。晩には潮のうねりがさらに高くなり,波が船首にぶつかった時には甲板に大量の海水が流れ込んだ。もう船酔いはなくなったので,夜には甲板を回り,目の前に現れる長周期の荒波(うねり)の行方をずっと眺めていた。大きなうねりの中に満月の光が差し込む不気味な海の光景は,今でも脳裏に焼き付いている。時々船の真下でウミホタルがキラキラ光っていたのを覚えている。

図1.那覇港に入港するおとひめ丸。右側は那覇港の岸壁で待ち受ける興南高校の女子学生たち。1968年(昭和43年)8月31日撮影。戦後の沖縄復興とともに子供たちの笑顔が目立つようになってきた。興南高校野球部は,この年甲子園ベスト4に進出した。沖縄公文書館に保存されている資料(写真)より転載。

図2.那覇港に接岸したおとひめ丸。沖縄公文書館の資料より転載。船の最上階のデッキには,まだ残っている人たちいる。あるいは復路の船に乗っている人たちか?1968年8月31日撮影。沖縄公文書館に保存されている写真は,同公文書館と明記すれば(写真右下にプリント)自由に利用できると記されている。

図3.おとひめ丸要目表。竣工は昭和41年(1966年)7月15日。総トン数は2,991トン。1971年に乗った船は,ほぼ間違いなく「おとひめ丸」だったと思う。図3のように,「沖縄公文書館」の文字が見えにくい場合には,図の説明の中に出所を示すが,明瞭に見えるときには省略したい。

図4.琉球海運の沖縄航路の日程表と運賃。「時刻表ギャラリー」の写真から転載(許可済み)。私は,写真(図4)と「全く同じ」パンフレットをもらった記憶がある。沖縄航路には,東京‒那覇間が「おとひめ丸」,那覇‒石垣間が「ひめゆり丸」が就航していた。私の記憶では,東京‒那覇間が「那覇丸」,那覇‒石垣間が「沖縄丸」となっているが,沖縄丸と那覇丸は,ともに貨客船で乗船定員は200名となっている。私の記憶違いだろう。「ひめゆり丸」や「おとひめ丸」では,学生による騒乱が発生した。自分の国(日本)に行くのになぜパスポートを必要とするのか・・・。変な言い訳をつけて運賃を払わずに乗船するとか・・・。そういう類の騒乱がたびたび発生した。今では考えにくいが,当時の学生には血気盛んな者が多かった。かつての私もそんなところはあったが,今もあまり変わっていない。当時の片道運賃(2等)は,東京‒那覇間が3,760円(学割),那覇‒石垣間が1,440円(学割)だった。往復1万円かかった。現在(2026)は,航空機で岡山‒石垣間(往復)が特割で46,000円。

図5.おとひめ丸の2等船室。船室のザコ寝する場所の感じ,リュックサックを収納する場所,通路の脇に立っている鉄柱など,自分の記憶と完全に一致するので,この船に乗ったことは間違いない。しかし,こんな高密度でごろ寝したら,両隣の人たちには悪いが,30分もしないうちにもどしてしまいそうだ。船酔いがひどくなると,広く開いているスペースを見つけて横になるか,船の中央付近の廊下で壁に寄りかかって,うずくまるかして耐えていたと思う。公文書館の表示が上下逆さま。

図6.おとひめ丸の売店。売店は格子で仕切られていて,小さな窓越しに買った品物を受け取るようになっていた。私は何か買った記憶はない。外国に行くと格子で仕切られたショップは多い。学生の集団による品物の強奪を恐れたのだろうか?この売店では,レートは高いが両替もできたように記憶している。船が航行中は,売店の近くなどで腰を下ろしてうずくまる者もいたと思う。売店の前を通りがかった親子は,船酔いには悩まされなかったのだろうか?船に入ったばかりの写真か?

図7.沖縄便(航空便)の航路。
 岡山空港を出た飛行機は瀬戸内海の近くまで南下する。瀬戸内海の上空をしばらく飛行した後に,国東半島上空で南西方向に進路を変える。阿蘇山の真上を通過してさらに南下すると鹿児島空港や桜島の噴煙が見えてくる。
 桜島上空から太平洋に出ると,進行方向左側に種子島と屋久島が見える。さらに南下するとトカラ列島上空に達するが,飛行機はトカラ列島の真上を通過するため,トカラ列島の島々は見えたり見えなかったり・・・。トカラ列島を過ぎると,左側に奄美大島,徳之島,沖永良部島,与論島が見える。
 沖縄本島が見えるころから飛行機は徐々に高度を下げて行き,那覇空港には海沿いに下って北側から降りるときと,名護の上空から沖縄本島を横切って沖縄本島の東側に出てから南側から降りて行くときがある。飛行機が那覇空港に着くのは,10時35分。石垣行きの便は12時20分発。1時間少々空港のターミナルで待機する。
 船の航路は,航空機の航路とほとんど同じである。1971年は晴海ふ頭(東京)から出港した。運行予定表(図4)では11時出向となっているが,実際に港を離れたのは12時をはるかに過ぎていたと思う。船は,伊豆半島沖,次に紀伊半島沖を経て夕方に高知沖に達したと思う。
 夕方まではデッキで元気に遊んだが,夕食の頃になると船酔いでフラフラになった。それでも,夕食を食べないのはもったいないのでやっとの思いで食堂にたどり着いて,カレーを食べたと思う。夕食を終えて船室に戻ってからは,外の景色など見る余裕はなく,ずっと寝ころんでいた。しかし,縦方向と横方向の激しい揺れにとうとう我慢できなくなってしまった。
 2日目は,トカラ列島から奄美大島の付近まで達した。船酔いでデッキには出られず,一日中船室でゴロゴロしていた。
 3日目になるとデッキに出られるようになり,遠くに沖縄本島が見えた。伊江島の尖がった山の景観はよく覚えている。図は京浜昆虫同好会「新しい昆虫採集案内(Ⅲ)」から転載した。

図8. 宝島か小宝島の潮間帯(intertidal zone)でイセエビを捕るおばちゃん(左)とイセエビの胸部腹面(右)。左の写真は,瀬尾央「吐噶喇」から転写(山と渓谷社には連絡済み)。イセエビは,おばさん達でも網をかけて採集できるみたいである。鹿児島まで生かして船で運べば,結構よい値段で売れるだろう。右のイセエビは高知の池ノ浦で捕れた個体。左側の第3歩脚,第4歩脚,第5歩脚は自切(autotomize)してpedestal(coxaとbasis)のみが残っている。右側の歩脚は,自切はない。    
 イセエビの胸部腹面にある5対の歩脚は,いずれも胸部腹面から側方に出ている。歩脚の出方はカニ類と同じだ。しかも,左右の第3顎脚(third maxilliped)pedestal(台座)は基部がくっついているが,歩脚(walking legs)になると後ろに行くにしたがって幅が広くなり,カニ類の歩脚のつき方と同じパターンになる。このような類似性から,最初の内はカニ類の祖先は,イセエビやウシエビと考えていた。一方,カニ類は腹部を丸めて胸部の下にくっつけているが,イセエビは腹部を煽って後退することはあるが,基本的には腹部は後方にまっすぐ伸びている。カニ類の祖先がイセエビやセミエビという仮説は,間違っている可能性が高い。・・・では,カニ類はどのような十脚甲殻類から進化したのか,それは追々述べて行くことになろう。ヤドカリとカニの共通の祖先も3匹採集されている。
 3月中旬だと,船がちょうどトカラ列島を過ぎて奄美大島や徳之島付近に達すると,吹く風に生暖かさを感じる。昔は,なるほどここに「渡瀬線」があるかと思っていた。しかし,温帯から亜熱帯に移行する感じはするが,動物相(fauna)に線引きできるほど明確な境界はない。渡瀬正三郎は「マングース問題」を引き起こした。鹿児島県や沖縄県は,渡瀬正三郎の所属した東京大学理学部(東京帝国大學理科大學)に損害賠償を請求してもいいぐらいだ。今なら逮捕されてクビだ。

図9.(左)宝島小・中学校の入学式。(右)悪石島の「ボゼ」。瀬尾央「吐噶喇」から転写(山と渓谷社には連絡済み)。入学式の年度は不明だが,新たな小学一年生は中央で花束を持っている男子と思う。後の3名は先生の家族だと思う。顔つきが両親によく似ている。島には両親といっしょに転学する児童が多いのだろう。昨年(2025)西表島で出会った小学生はお父さんといっしょに北海道から来たと言っていた。ボゼは悪石島のお祭り。詳しいことはインタ-ネットで検索されたい。

図10.トビウオの干し物(左)とトビウオの捕獲(右)。船の先端の付近を見ていると,時々トビウオの群れ(数匹から10匹ほど)が波の間から飛び出し,海面すれすれを滑空してゆくのがわかる。海面にいるのは数メートルから,一番長い距離で10メートルぐらいだろうか?トビウオの干物は脂肪が少なく,私はあまり好きではない。伊豆半島(下田)では,トビウオの干物を特別な汁につけて「クサヤ」として売っている。焼くときにはすごい臭いがする。トビウオの干物はおそらく安いのだろうが,こうして家族のために懸命に働ける日常があることは素晴らしい。瀬尾央「吐噶喇」から転写。山と渓谷社には連絡済み。

図11.地質時代の一覧図表と脊椎動物の進化。コルバート「脊椎動物の進化」(上巻)から転載(築地書館には連絡済)。脊椎動物(vertebrates)は古生代のオルドビス紀に出現した。祖先は原索動物(ナメクジウオやホヤの仲間)だろう。「魚類」と総称される脊椎動物は,現在では4つの綱(class),すなわち無顎綱(Agnatha),板皮綱(Placodermi),軟骨魚綱(Chondrichthyes),および硬骨魚綱(Osteichthyes)に分類される。それぞれの綱は,見かけ上は「魚」の形態を維持しているが,出現してからは一度も遺伝子の交流はなく,遺伝子から見ると全く異なる生物群と言える。同様に両生類とハ虫類も外見的にはよく似ているが,遺伝子レベルで見ると全く異なる生物である。大学の理学部生物学科に入学してから「系統分類学」の講義で初めに学ぶ基本的知識である。「動物系統分類学」が全国の大学の生物学科にどれだけ開講されているか,私は知らない。ほとんど残ってはいないのだろう。教員自身が教養科目についてよく勉強していないので,アウトラインやパースペクティブ(概要)を説明できる者がいない。すぐに分子系統学や集団遺伝学の知識や技術の講義が行われても,パースペクティブを理解していないと大学入試共通テストの勉強と何ら変わるところがない。アウトラインやパースペクティブについては,大学では教えてくれないので自分で頑張って勉強するしかない。訳者(田隅本生氏)も言っているように,コルバート「脊椎動物の進化」(築地書館)はバイアスがかかっていない。つまり特定の(進化)思想に偏向していないので読みやすい。

<資料や写真の利用に関する「生物多様性研究・教育プロジェクト」の考え方>

 日本の社会は,いまだに官僚的思考の人物が猛威を振るっている。大きな組織では,地位の上の者に対して部下は,全く意見を言えない。この傾向は特に大企業ほど激しくなっている。だから,理不尽なことでも,上司がイエスと言えばイエスと答えるし,ノーと言えばノーと返事をする選択肢しかなくなる。もし逆のことを主張したら大変な目に会うだろう。お前何様のつもりかと激怒され,左遷どころか即座にクビになるか,ねちねちといじめられて自己都合による退社を迫られるかもしれない。
 取締役日本テレビの日枝久氏などは,そんなタイプの典型的な人物かも知れない。フジテレビ時代の1983年の取締役就任から40年間にわたって会社の中枢にいた人のようである。社会というのはどんどん変化する。大きな組織の中にいると,社会に貢献できているうちは羽振りよくできるが,いったん権勢が傾きかけると奈落の底に突き落とされる。つまり,トカゲのしっぽ切りに会う。香川照之氏は慢心が表に出るのが早すぎた。かく言う私も,同じようにトカゲのしっぽ切りにあった(何度も・・・)。
 「君など要らないよ!我々は君の持っているポストがほしいんだよ!」と平然と言ってのける組織で働き続けるのは,なかなかしんどいものである。しかし,「必要ないから」ではクビにすることは難しい。私は水の入ったバケツを持って廊下に立たされるのは嫌だけれど,覚悟さえ決まれば窓際族の仲間入りするのはそんなに嫌でもない。あまり嬉しいことではないが,窓際で好きな仕事をしていれば同僚の迷惑になりにくいだろう。
 本や記事に使われた写真や図の転載に関して,多くの出版社が「無断転載は禁じる」と本の最後のページに記している。しかし「出版社に問い合わせてほしい」旨の記述もある。出版社側の対応もよくわからなかったので,この件に関していくつかの出版社に電話してみた。どこの出版社に電話したかは公表できないが,転載や改変に関してはネガティブな回答はひとつもなかった。
 一方,日本の社会の場合には,所有権が出版社や資料館に移譲された後も作成した個人の権利が残るようで,出版社では転載許可の判断ができないとの回答になることもあった。特に私の場合には,作成された時期が30年前から50年前の資料や写真のことが多い。作成者は不明のため出版社では判断できない事例が増加する。こうなると今の日本の法律ではどうにもならない。写真や資料は,合法的に取得した(例えばお金を払って得た)資料や写真の版権は,作成した個人ではなく,出版社や資料館の方に移ると考えてよいと思う。だから,特別な問題が生じない限り(つまり Google Mapにあるように,掲載した写真に著作権が設定されている場合を除いて)沖縄県公文書館のケースに準拠して写真や資料を転載できると判断した。
 私の場合には写真の原版がほしいと言っている訳ではなく,印刷された資料や写真を使いたいのである。だから「無断転載は禁ず」,しかし「転載を希望する場合には,連絡してほしい」と書かれているので,コンタクトをとって適宜判断すればよいと思う。要するに,転載する場合には礼儀は守ってほしいと解釈すればよいことがわかった。大学だと必ずネガティブな対応になるが,NPO法人だとこういう事案の解決は早い。

図12.伊江島の全景。1945年(3月20日?)。米軍が伊江島侵攻の前に上空から撮影した写真。飛行場には航空機はもちろん,高射砲もなさそうである。数門の高射砲でもあれば,一日中打ち続ければ,敵機の1つや2つは撃墜できたかもしれない。そんなことすらもできない状況に陥っていたのだろう。

図13.伊江島の飛行場を爆撃する艦上戦闘機。爆弾を投下した2機はP-47 サンダーボルト(Thunderbolt)だろう。この戦闘機は,12.7mm機銃を左右の翼に4基ずつ,最大1.3トンの爆弾を装備できる。対空だけでなく,対地攻撃力も極めて高い。サンダーボルトだけで1万5千機以上生産された。撮影は1945年4月14日。

図14.サイパンから強襲揚陸艦,護衛空母,航空母艦等によって伊江島に運ばれたサンダーボルト。地ならしをした飛行場(空港とは言えない・・・)に到着した機体。・・・ところで空港では「機材」の到着遅れによりJAL何々機の出発が遅れます,みたいなアナウンスがあるが,JAL何々機は機材の搬入によって修理されるのだろうかと思ってしまう。JAL何々便は飛行中にどこかのドアが吹き飛んでしまったのではないか,と本当に思っていた。1945年3月か4月初めの撮影だろう。

図15.伊江島の飛行場に到着したサンダーボルトから12.7mm機銃弾を取り出す兵士。1945年4月上旬の撮影。機銃弾は12.7 mmでも強烈な破壊力を持つ。サンダーボルトは搭載している機銃弾の数も半端なく多そうである。高速で飛行中にたくさんの機銃弾を放たれたら,ゼロ戦ではとても勝ち目はない。機銃弾の直径が20 mm以上になると「銃」ではなく,「砲」と呼ばれる。後期の紫電改は20 mm機関砲を4門装備していたが,空戦では数に押されてもう勝ち目はなかったかもしれない。

図16.米軍の伊江島占領の前に集落から救出された女性と子供たち。米軍占領は4月20日あたりなので,1945年4月15日前後に撮影されたと思われる。

図17.米軍占領後に,収容施設に保護された伊江島の子供たち。先生は地下足袋のような靴を履いているが,子供たちは全員裸足である。先生だけでなく,子供たちも大変険しい表情をしている。先生の右に(写真では向かって左側)にいるのは,先生の子供ではないだろうか。顔つきがよく似ている。・・・でも,親子ともども表情は大変こわばっている。琉球では,子供たちは裸足で歩くというのが古くからの習慣だったのだろうか?何かの教育的信念があったのか?1945年4月25日。

図18.やってはいけない学校教育。小学校の低学年では,「前へ倣え」ができる子供とできない子供がいる。前列2列か3列ぐらいはしっかりできているが,それより後列はバラバラ。「整列」という概念がまだ十分に備わっていないのだろう。昔の学校では,整列がうまくできない子供たちに対して整列を強要した。強制して成立する社会が美しく見えるのだろうか?日本の学校教育では,うまく整列できない子供,あるいは故意に列から離れる子供に対し,水の入ったバケツを持たせて人前に立たせるような教育を長い期間行ってきた。そんな教育が形を変えて,未だに現代社会の中にはびこっているように思われる。撮影は1945年4月25日。

図19.1967年7月27日,伊江村。戦後20年も経つと,まだアメリカの占領下であっても子供たちに表情には明るさが見えている。ちゃんと靴も履いている。ある程度教育が進んで,環境を整えてやれば,一声二声もかければ自発的に整列できるようになる。見栄えを考えると,このぐらいのorganizationのレベルであれば,アメリカの高等弁務官は大いに喜ぶだろう。日本の社会における教育者,軍人,官僚は,年齢にかかわらず一糸乱れず整列させることが,美しい日本の社会形成につながると思っているのだろう。二宮金次郎の銅像もそんな観点から学校の中に置かれたと思う。そんな教育をしても,イカレタ者が社会の中心に成りあがるだけ。

図20.鹿児島から沖縄本島に向かうおとひめ丸。1966年7月20日。目的地(那覇港)が近づくと,誰ともなく自由に甲板に出て故郷の地を見ている。人々の間には,「もう整列しなくてもよい」,「自分の意思で周囲を自由に見られる」という開放感がみなぎっている。

図21.鹿児島から沖縄本島に向かうおとひめ丸。1966年7月20日。人々は好きな方向を向いて話したり,あるいは景色を楽しんでいる。

図22.鹿児島から沖縄本島に向かうおとひめ丸。1966年7月20日。「強制」から「自由」へと変わった日本の社会。私と同じ時期(1966年から1972年までの7年間)に沖縄旅行に行った若者たちは,同じような光景に出会い,そして私と同じように自由を感じたかも知れない。戦後に産まれて本当に良かったと思う。

図23.鹿児島から沖縄本島に向かうおとひめ丸。1966年7月20日。国民が自由に行動できない,自由な発言が許されなくなることが戦時社会への第一歩かもしれない。行動や発言の制限は,厳格な規律を設けることによって可能になる。現在(2026)でも,旧帝国大学,研究所,大企業では一般の社会に比べて,厳格な規律が適用されている。旧帝国大学,研究所,大企業には,厳格な規律こそが組織を運営するために必要不可欠と考える権力者が多いのだろう。しかし,厳格な規律は実は名目であって,本質は地位の下の者に意見されることが嫌なのだろう。私の周りには東京大学理学部の出身者が多かったが,人に批判されることをひどく嫌う人たちが多かった。単なる思い付きの意見を言っているだけなのに,逆らっていると勘ぐって激高する者も少なくなかった(私も激高したが・・・)。そういう連中は,事あるごとに「他人の悪口は言うな」と叫びまくっていた。冷静に聞いてみると,悪口を言っていないのは自分たちの身内のことだけで,身内以外の人間に対しては大層な差別意識を持っていた。官僚社会というのは,そんな性格を持った者の集まりなのだろう。そんな奴らの言うことを真面目に聞いていると早晩精神病を患うことになる。どのような不利益を被ろうとも,こういう連中とは闘わない限り,自由への道は開かれない。問題児(性格異常児童) という評判が立つと闘いやすい。

図24.那覇港に接岸するおとひめ丸。この写真を見ていて面白いことに気づいた。右側に「ゲンキ」と書かれた冷蔵庫を押して歩く人が写っているのがお分かりだろうか?「ゲンキ」とは,現在(2026)の「ゲンキ乳業」のこと。アイスクリームや氷の移動販売をしている。私は,ゲンキの冷蔵庫を押して歩く本人を見た記憶がある。ただし,私はお金がなくてアイスクリームも氷も買えなかった。

図25.現在(2026)の那覇空港。小禄の西側のサンゴ礁原を埋め立てて作った。滑走路は2本。地図に入っているものと,海岸を埋め立てて左側にもうひとつある。太平洋戦争時の小禄飛行場は,現在の331号沿いと332号沿いにあったと思われる。Google mapあるいはGoogle Earthの写真は,出所を表示すれば転載は可能とのこと。写真右下にgoogle mapに使われているマークが2つあることで,google mapかgoogle earthから転載したことがわかる。
<平和学習に名を借りた軍国主義教育>
 太平洋戦争では伊江島に比べ,沖縄本島では女性や子供たちを含めて民間人の被害が大きかったと思う。兵隊といっしょに民間人も移動し,結果として戦闘の真っただ中に置かれ,被害が拡大した。伊江島と沖縄本島南部における民間人の被害を比較すると,両者の間には「教育思想」に違いがあったように思われる。伊江島では戦闘の始まる前に,民間人は米軍によって救出された。しかし,沖縄本島南部では,サイパンと同様に「生きて辱めを受けてはならない」という軍人に適用される教育が民間人にも浸透していたのではないだろうか?結果として,軍人とともに行動して米軍に殺されるか,自決を強要されたのだろう。
 世の中には,どの時代にも奇妙なカリスマ的信念を持つ者がいる。太平洋戦争では,どうしてこうなったかの原因を調査することなく,「アメリカが攻めてくるから日本を守らなければならない」という著しく客観性に欠けた信念を持ち,それを社会に向かって吹聴した者がいる。カリスマ的信念に国民が踊らされ,結局は太平洋戦争という道を歩んでしまったと思う。客観性に欠けた信念や思想は,現在(2026)でも社会に根強くはびこっている。「平和学習」もそのジャンルに入っていると思う。

図26.終戦の年(1945)に小禄飛行場(現在の那覇空港)に残された旧日本軍の戦闘機や爆撃機の残骸。前方の2機は「紫電改」か「疾風」だろう。月光や鍾馗はプロペラ3枚なので,これらの戦闘機ではない。20mm機関砲を翼の左右に1門ずつ備えている(たぶん疾風?)。翼に乗ってコクピットの中を覗いているアメリカ軍の兵士が見える。紫電改にしても疾風にしても,数字上はP-47サンダーボルトやP-51マスタングと比較できるが,高高度における性能とか対地攻撃力では,サンダーボルトやP-51にはかなり遅れを取っていた気がする。後方にある残骸は,魚の脊椎骨が爆弾のショックでひん曲がってしまった感じである。奥に放置されている爆撃機が2つ見えるが,これらは海軍の「九六陸攻」か,その後継機の「一式陸攻」あたりだろうか?陸軍の重爆ではなさそう。飛行場の周辺は完ぺきな野原である。

図27.1971年の那覇市街と三越(デパート)の屋上。私が初めて沖縄を訪れた時には,もうどこにも戦争の面影は残っていなかった。那覇市街や首里にはぎっしりと建物が並び,本州では10年前ぐらいに見たタクシーが飛び交っていた。三越の屋上にはパチンコ台を横に寝かせたようなゲーム機が置いてあった。今で言うスロットマシンか?ここは一度訪れたような記憶がある。私と同年代ならば,少し間をおいて「あれ?俺もここに行った記憶がある。」という若者(老人)が多いだろう。

図28.建設中の那覇空港(1971年)。飛行場の隣の集落が小禄になると思う。現在(2026)は,この飛行場の手前にあるサンゴ礁原を埋め立てて飛行場がもうひとつできている。沖縄本島は開発が進み,富栄養化によりサンゴも広範に死滅している。山原(やんばる)の森ですら相当な勢いで破壊が進んでいる。こういう現状なので,私が沖縄本島で行く場所は決まっていて,南部では糸満市のサンゴ礁原と,北部では本部半島と周辺の島々(主に屋我地島)である。

<参考文献>

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  • 安溪遊地(編) l987.西表島関係文献目録(後編)。南島文化 Vol. 9: 71‒ 100.
  • E.H. コルバート(田隅本生 訳) 1978. 脊椎動物の進化(上巻と下巻)。築地書館。
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  • 畑中幸子(1967) 南太平洋の環礁にて。岩波新書。
  • 時刻表ギャラリー(http://www.tt-museum.jp/gara_index.html)。
  • 小島圭三・林匡夫(1969) 原色日本昆虫生態図鑑 (Ⅰ) カミキリ編。保育社。
  • 京浜昆虫同好会(1973) 新しい昆虫採集案内(Ⅲ)‒離島・沖縄採集地案内編‒。(西表島から戻った後に出版されている。1970年の出版であれば,行く場所が少し変わった可能性がある。)
  • 岩切晴二(1966から1967) 数学精義‒数Ⅰ,数 ⅡB, 数 Ⅲ。培風館。
  • 瀬尾央(1992) 吐噶喇(トカラの遠い空から)。山と渓谷社。
  • 沖縄公文書館資料‒写真 (https://www.archives.pref.okinawa.jp/guide/reading_building)。
  • 山田真弓・西田誠・丸山工作 (1981)進化系統学。裳華房。
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  • 内田亨(1965) 動物系統分類の基礎。北隆艦
  • 高良鉄夫(1969) 琉球の自然と風物‒特殊動物を探る。
  • Saigusa, M. (1978) Ecological distribution of three species of the genus Sesarma in winter season. Zoological Magazine 87: 142‒150. 学士論文。
  • 新保真紀子(2010) 小1プロブレムの予防とスタートカリキュラム : 就学前教育と学校教育の学びをつなぐ。明治図書出版。
  • 壷井栄(1952) 二十四の瞳。光文社。
  • 著者不詳(2022) ペスタロッチとは?教育思想,名言,著書などを解説!(幼児教育メディア「ぎふと」)。

<執筆>

 三枝誠行(NPO法人,生物多様性研究・教育プロジェクト,プロジェクト長。理学博士。)

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