2024年11月26日(火)
上原(西表島)と鳩間島の往復
令和2年(2020)から,沖縄方面でも新型コロナウィルスの感染者が激増した。宿泊施設が軒並み閉鎖されたことに加えて,自分の身の危険も感じたこともあって,琉球列島には5年間行くことができなかった。
余計なことかもしれないが,病原性ウイルスは動物(ほ乳類)への感染を繰り返すと弱毒化する性質があるようだ。ウイルス感染の初期に感染すると死亡率が高く,後で感染すると風邪ぐらいで済むことが多くなるのかもしれない。感染を繰り返すと毒性が弱まる仕組みはよくわからない。(多分今でもわかっていない気がする。)現代では感染症が広がるとワクチン(vaccine)が製造される。ワクチンを打てば症状は軽くて済むが,副作用の問題もあって開発には時間がかかる。
一番良いのは,普段から免疫力を高める生活をすることだろう。ただし,サプリで免疫力が高まるなどと宣伝している会社があるが,大いに怪しい。漢方薬も人によりけりで,どれだけの人の免疫力が改善されるかは不明。やはり,全般的に改善が期待されるのは,少し辛抱して体を動かし,汗かく習慣を身につけることだろう。また,医学や薬学に頼るとお金がかかる。スポーツ・ジムも同様。運動場を走るのならばお金はいらない。私の場合には,龍ノ口神社(標高225m)までの山登り。週3~4回をノルマにしている。お陰で痛風は収まった。
令和6年(2024)は,西表島には6月21日から6月30日まで滞在した。滞在先は,いつものように琉球大学熱帯生物圏研究センター西表研究施設である。私の場合には, 八重山諸島に行くのは海洋生物を採集する目的があるので,滞在は少なくとも1週間,長ければ1か月に及ぶ。それなりの設備(accommodation)がある施設でないと長期滞在は難しい。幸いなことに,西表島には,琉球大学熱帯生物圏研究センター・西表研究施設があり,沖縄本島の瀬底島には同センター瀬底研究施設がある。琉球列島に調査に行くときにはいつもこれらの研究施設を利用している。
日ごろ研究室にこもって分子生物学や生理学の実験に勤しんでいる人たちの中には,私が西表島に行くと言うと,この忙しい中に何で自分一人だけ遊びに行くのかと,真剣に怒る人がいる。特に医歯薬系と工学部にはそういう人の割合が高い気がする。こういう人たちは,研究というのは実験室の中でやるものであって,ファーブル・ラマルク・ダーウィン・ヘッケルが行った研究は,遊び以外の何物でもないと思っている。
権威ある人たちから,試験で良い点数を取ることが人生の最高目標と教えられ,それを頑なに信じて小さいころから学業に励んできた人たちは,どうしても視野が狭くなる。そのためか,独立して自分の道を歩み始めてからも,権威者から教えられてきた正しい(?)道以外のことには激しい拒絶反応を示す人が多い。野外の生物を研究対象にすると言ったら,それこそ職務をさぼって遊び回っているけしからん野郎だ,と思うのだろう。しかし私から見れば,被害妄想もいいところである。
真面目で正直な性格自体は悪いことではない。自然科学は麻雀や博打を打つのとは訳が違うので,やはり真面目で正直な人たちが担う方が良い。一方で,真面目で正直な性格の人たちというのは,二宮尊徳教育の理念を強く受け継いでいる感じがする。官僚主義も二宮尊徳教育があってこそ成り立つ制度だと思う。しかしながら,真面目で正直な性格の人たちが陥りやすい「罠」(ecological trap)がある。繰り返すが,小さいころから二宮尊徳精神を学校で繰り返し教え込まれ(一種の洗脳),受験戦争まっしぐらに生きてきた人たちの視野は当然ながら極めて狭い。だから価値観もびっくりするほどシンプルになる。
さらに,受験勉強でいい点数を取ったということで,人格もまた高邁であり,(内心)自分は大変優れた研究者だと錯覚する人たちも多い。高邁な精神の持ち主(要するに潔癖主義者)で,かつ視野の狭い人物となれば,行き先は大体想像できる。他人に対する客観的評価ができなくなり,失敗を極端に恐れることや,先例に異常なこだわりを見せるなどという兆候が表れる。自分の優位性を高めるために,とにかく何か理由をつけて他人を貶めようとする傾向(要するに陰湿ないじめ)が強くなる。まあしかし,こんな人たちは官僚社会だけで起きることではないし,いつの時代にもどこの国でも普通にあることだろう。日本の社会における問題は,組織(organization)の中で権威主義や潔癖主義が容易に発揮されてしまうことである。
私は過去に,「お偉いさん」方の集まる会議に出たことが何度かある。会議の出席者は自分の意見を言わないので,この人たちには判断する力がないのかと最初は思った。そして会議の間には,ほとんど意見を言うことのない権力者に,露骨に忖度をしながら議事が進行する。会議の結論は始めから決まっていて,初めから話し合う余地などみじんもなかった。知らないのは自分だけだったと後になって気づく。最初は,判断力がないから権威にゆだねるのかと思ったが,そうではない。潔癖主義者に自分で判断できなくされていたのである。
インターネットを見ると,ひろゆき氏,ホリエモン氏,杉村太蔵氏のような人たちが多様な意見を述べている。彼らの判断力がいつも素晴らしいとは思わない。それどころか,何だか訳の分からないことを言っていると思うことも少なくない。しかし,こういう人たちが自分の意見を主張し,時には世間を叩き,時には世間から大いに叩かれて成り立つ社会の方が,私には合っている気がする。
二宮尊徳をモデルとして,明治以降に日本が作り上げた理想的な社会運営のシステムは,東条英機氏のような人を事務次官として成り立つ官僚主義だったのだろう。しかし,こういう官僚主義では,自分の人生を権威者や潔癖主義者が決めることになり,自分しかできないことができなくなる。私は,野外の生物をファーブル・ラマルク・ダーウィン・ヘッケルと同じ目を通してみてみたい。そして,現代技術の助けを借りて生物の行動が発現する機構を解析してみたい。自分の人生の目標は,権威者の言うことに従って生物学の研究を推進することではない。だから評価されることは永久にない。
何だ,それでは初めから落ちこぼれではないか,と感じる人もいるだろう。誤解しないでいただきたいが,私は権威者の言うことに始めから逆らっている訳ではない。生物学研究の進め方が,権威者の方々のご意向とは違っているということである。権威者の方々のめざす道は,私にとっては視野が狭すぎてついてゆけない。要するに,専門家や権威者を全面的に頼らず,自分の頭で物を考え,原著論文(original papers)という形で自分の意見を世に問うてみたい。
権威を重んじる官僚主義・潔癖主義・権威主義は,派閥争いを生み出すことが多い。「嫌ならすぐにやめてしまえ!」ではなく,もう少し自由度の高い組織をめざしたら,日本の国は国際社会を牽引できる自然科学を生み出すことができると思う。
・・・という訳で,令和6年(2024)には,6月17日から7月12日まで琉球列島に行き,海産十脚甲殻類を採集した。ブッポウソウの研究の関係で,例年は4月から5月上旬までしか行けなかったが,今回の調査は思い切って梅雨明けにシフトした。
図 1.鳩間島航路の時刻表
鳩間島には,安永観光と八重山観光フェリーの 2 つの船会社が運航するフェリーで行ける。どちらのフェリーも行か帰りに西表島の上原を経由する。つまり,上原港と鳩間港を往復する船というのはない。・・・なので,時刻表をよく見てどの船に乗るかを決めなくてはならない。
私の場合には,船浦にある琉大熱研(住所は上原)に滞在していたので,宿舎から車(レンタカー)で 10 分以内に上原港に着く。上原発 9:00 の八重山観光フェリーに乗り,9:15 ごろには鳩間島に着いたと思う。
鳩間島では,午前中に集落付近を散策してから,島の中央にある小道を歩いて島の北端まで行った。
それから左折して,海岸沿いの道を歩いて船着き場に戻った。午後は,集落を抜けて島の中央の小道を
歩き,北の海岸から右折して船着き場に戻った。
船が来るまでだいぶ時間があったので,公民館の休憩所に 1.5 時間ほどいてから,16:25 発の八重山観
光フェリーに乗って上原港に着いた。
図 2.朝 9 時の定刻に上原港を出た八重山観光フェリー。正面に見えているのは上原の集落。桟橋は写真右側の橙色の屋根の建物。
図 3.鳩間島の桟橋。島の西側半分を一回りした後,桟橋の休憩所で横になって寝ていた。船は朝に 2 便,夕方に 2 便しかないので,日中は休憩所を利用する人は誰もいない。上原から鳩間島には高速フェリーの他に「かりゆし・平成丸」(八重山観光フェリー)と「カーフェリー・ぱいかじ」(安永観光)で行くこともできる。両者とも週 1~2 回しか運航がなく,鳩間島に着く時間も昼頃になるので日帰りは難しい。今まで鳩間島に行けなかったのは,多分上原港を出港する船の時間が遅かったからと思う。最近になって,上原から鳩間島まで日帰りで行けるようになった。
午後になると桟橋には遊覧船(ボート)が接岸し,観光客を乗せて島の周囲のサンゴ礁でダイビングなどをしている。遊覧船を利用する観光客は,この案内所は利用不可と書かれている。おそらく 7 月中旬から 8 月いっぱいは,案内所は観光客が大勢訪れるのだろうが,それでも公共施設として利用可能な気がする。
図 4.鳩間島での散策コース(2024 年 6 月 30 日)。石垣島から西表島に来たのは,6 月 21 日である。6 月 21 日(金)は,潮(tides)の状態は大潮(spring tides)の中でも干潮時(low tide)の潮位が最も低くなる(13:09 に 4 cm)。干潮時の潮位はその後少しずつ高くなり,しかも干潮時は夕方になる。例えば,上弦(the first quarter of the moon)の日の 6 月 29 日(土)は,満潮(high tide)は朝 7:20 で潮位(tide height)は 89 cm, 干潮は夕方の 19:24 で潮位は 82 cm。日中は潮が上げており,上弦や下弦を過ぎると,干潮時でも干潟に出て採集することができなくなる。そういう時(6 月 28 日から 6 月 30 日)は,別の仕事をする。7 月 1 日(月)は,石垣空港から宮古空港に飛ぶ飛行機の予約(特割)をしていて,どうしても 6 月 30 日に上原に戻らねばならなかった。琉球列島では毎日が時間に追われる日々が続く。
図 5.鳩間島の中央にある「物見台」から東シナ海を望む。6 月 30 日の東シナ海は,波が穏やかであった。いったん海が荒れてしまうと,何日間か鳩間島から出られなくなる。そうなるとスケジュール全体が破綻する。特に離島に行くときには注意しなければならない。台風が来るとさんざんな目に会うことが多い。
図 6.鳩間島の北海岸を回る遊歩道。道はよく整備されていて歩きやすいが,梅雨明けもあって猛烈に暑い。熱研の宿舎で,2 リットルのペットボトル(2 本)に水を入れて持って行ったように記憶している。飲料水は,集落の中にある簡易郵便局の前に自動販売機が置いてあり,そこで買うことができる。集落を出ると,自動販売機はない。そもそも電気が来ているのは集落のはずれまでで,島の北半分には電灯がなく,夜は真っ暗になるだろう。鳩間島には発電所はなく,電気は石垣島の発電所から海底ケーブルで西表島(古見あたり)に行き,それから北側海岸沿いの送電線を使って船浦に送られ,船浦から海底ケーブルで鳩間島に来ていると思う。水は西表島から海底ケーブルで送られている(1980 年から)が,取水場所は不明。浦内川と思われるが,取水場所や浄化センターみたいなところは見たことがない。鳩間島には小川がないが,小道に沿って木々が生い茂っているので,年間を通して結構雨は降るのだろう。
図 7.モクマオウの枝にとまるズアカアオバト。ズアカアオバト(和名)の学名は Treron formosae, 英語名称は Whistling Green Pigeon。分布域は狭く,台湾から琉球列島にのみ分布するようである。なお,日本列島,中国大陸,台湾, インドシナ半島に分布するのは,アオバト(和名)。学名は Treron sieboldii。英語名は Whitebellied Green Pigeon。両者は,見かけはよく似ているが,足(足根中足骨)の太さや尻尾の羽(正式名称は知らない)の大きさと模様などに大きな違いがあり,別種と判断してもよいのだろう。ズアカアオバトの足は太く,表面には羽毛が密集して生えている。夜間に蚊に刺されるのを防ぐためかもしれない。また尻尾の羽(feather)には面白い模様がある。なお,私は亜種(subspecies)とか種(species)のどちらにするかという議論には参加しない。悪しからず・・・。
ズアカアオバトに限らず,鳩間島の野鳥はあまり人を恐れない。真下に行ってもどっかよその場所を見ている。鳩間島にはズアカアオバトとヒヨドリが多い。
図 8.オオバイヌビワの葉裏にとまるイシガケチョウ。イシガケチョウはもともと葉裏にとまる性質がある。幼虫の食草であるガジュマルの葉裏にもよくとまっている。インターネットで調べたらオオバイヌビワも幼虫の食草のようである。とにかく気温が高いこともあって,イシガケチョウは林内の涼しい場所にいた。
図 9.(上)クロマダラソテツシジミ。鳩間島ではたくさん見かけた。迷蝶ではなく,琉球列島に定着している可能性が高い。宮古島の海岸沿いのソテツでもよく見かけた。暑さのためとまっても翅を開くことはなかった。
(右)リュウキュウムラサキ。海岸沿いの林縁部でよく見かける。本種はオオハマボウの葉の上にとまって翅を開くことが多いが,暑さのためいくら待っても翅は閉じたままだった。タテハチョウ科のチョウは,脚は 6 本ではなく 4 本。リュウキュウムラサキは樹木の幹には下を向いてとまる。スペースの関係で,写真は右に 90 度回転させている。
図 10. アオタテハモドキのオス(左の写真)とメス(右の写真)。鳩間島にはアオタテハモドキも非常に多かった。アオタテハモドキは,石の上や草にとまる時には翅を開くことが多いが,暑さのためにすぐに閉じてしまう個体が多かった。オス・メスともに,前翅と後翅の両方に目玉模様が顕著に表れている。アオタテハモドキは季節的 2 型があるかもしれない。こんなに目玉模様が大きいのは,夏型であろう。鳩間島にはヒヨドリやメジロが多い。夏になると,ヒヨドリに襲われる個体が多くなると予想される。大きな目玉模様は,ヒヨドリの捕食を逃れる上で大きな効果があるような気がする。もちろん実証は必要だが・・・。
チョウやガの翅にある目玉模様は,警戒色(warning color)とされる。かつて昆虫類に見られるド派手な色や模様を警戒色ではなく,警告色(けいこくしょく)と呼ぶことを提案した人がいた。警告色と言うと,生物の生態や行動を客観的に記述する範囲を超えて,あたかもチョウが本当に捕食者に対して「俺を襲うな」という強い警告を発しているような印象を受ける。絵画で言えば,自然の風景画をピカソ風に捻じ曲げたということになる。実証もされないまま色や模様に対して,警告していると決めつけると,実証主義者との間に大きなギャップが生まれる。私は,昆虫の変わった色や形に対して,鳥が記憶できるかどうかの方がずっと重要だと思う。
アオタテハモドキの目玉模様とその生態学的意義について,実証的研究は可能である。こんなに目立つ目玉模様を持ち,林縁部にあれだけたくさんのヒヨドリがいれば,絶対にポジティブな結果が得られるだろう。一方では,そんな記述的データは不要だという人たちも多い。今西錦司氏や日高敏隆氏は,不要派の急先鋒だったと思う。そんな人たちの手にかかると,ファーブル,ラマルク,ダーウィンの行った定量的自然史研究は,徹底的に避難される。自然誌研究・生態学研究の世界では,現在印象派の研究が大手を振ってまかり通っている。秋篠宮悠仁さまは,心無い世間のうわさや研究への非難に負けず,自然科学としての自然誌(natural history)の研究をめざしたらよいと思う。そういえば,悠仁さまのおじいちゃんも生物が大好きで,下田臨海実験所にカブトガニやホヤを見に来たことがあった。
図 11.島の北側の海岸にある「ブシンヤー」跡と石垣。琉球石灰岩を砕いて家の土台にした跡が残っている。おそらくブシンヤーは一軒だけだったろう。家族で住んでいたか,あるいは石垣島から単身赴任だったか?どちらにしても給料などはもらえなかっただろうから,自給自足の生活を余儀なくされたに違いない。たまに石垣島から米が送られてくることもあったかもしれない。しかし,鳩間島に着いたとたんに土地の人たちに盗まれる,なんてこともあったかもしれない。自給自足と言っても,鳩間島には川はないので稲作は無理だろう。タロイモやサトイモなどを栽培していたのだろうか?小道の脇に小さなトマトがたくさんあったので,自生のトマトは食べていたかもしれない。ソテツの実なども食べたと思われる。鳩間島に多いヤシガニは結構なごちそうだったかもしれない。鳩間島に赴任して何年か務めを果たせば石垣島に返してもらえたのだろうか?給料もなく,自給自足で一生そこで暮らせと言われたらちょっと困る。
図 12. 遠見番の住んだブシンヤー(ブシヌヤー)。「武士の居城」とあるが,土台(石積み)の形状からして割と粗末な住居の感じがする。ブシンヤーは,島の北側の海岸にあるが,遠くを見るのならば中森にある遠見台(図 5)の方が見やすい感じもする。
鳩間島に村落が形成されたのは 15 世紀のようだ。日本列島の北海道から九州の地域は戦国時代,沖縄は琉球最初の統一王朝(第一尚氏)が成立した。第一尚氏の方針として,どこかの島から半ば強制的に移住させられたのかもしれない。
八重山諸島の沿岸域では,16 世紀に入ってから異国船の往来が見られるようなった。1549 年にフランシスコ・ザビエルが来日し,日本にキリスト教を伝えた。また,1563 年にはルイス・フロイスが横瀬浦(長崎県西海市の港)に上陸し,戦国時代の日本で宣教活動を行った。異国船の往来は江戸時代に入っても続き,江戸幕府は日本各地の海岸に遠見台を設置し,異国船や不審船の監視にあたったのだろう。ブシンヤーが建てられたのは,1644 年と思われる。
鳩名島では,明治末期から大正期にかけてカツオ漁が盛んだった。島内には鰹節の加工場が立ち並び,太平洋戦争前には人口が 700 人を超えたこともあったようだ。太平洋戦争のころは,人口は 600 人だったが,1945 年になって空襲が激しくなると,住民は日本軍によって西表島に避難させられた。しかし西表島にはマラリアが蔓延しており,600 人の住民のうち 59 人がマラリアで犠牲となった。さらに,1960 年代に入るとカツオが急に不漁になり,漁業が衰退した。カツオ漁の不振とともに,1970 年代にかけて人口が激減した。現在(2024)は,68 人。少し増加している。年間の観光客数は,5,274 人(2023 年)。
図 13. マラリア原虫の生活史(The Malaial Cycle)Ferl and Wallace, Biology から転写。
マラリア原虫は単細胞生物で,分類学的には原生生物(Phylum Protozoa)に属する。原生生物というと,ゾウリムシ,ミドリムシが含まれるが,マラリア原虫は胞子虫綱(Class Sporozoa)のプラスモディウム属(Plasmodium)に入
る。プラスモディウム属は,およそ 400 種が知られており,そのうち 30 種がヒトに感染する。
マラリア原虫は,脊椎動物の赤血球内に寄生してマラリアを引き起こす。吸血昆虫(ハマダラカ)と脊椎動物を行き来する複雑な生活環(マラリアサイクル)を持つ。
ヒトに感染するマラリア原虫の中で一番頻度が高い種類は,Plasmodium falciparum である。これは西アフリカのゴリラに寄生する Laverania から進化したようだ。分子系統学的推定では,約 1 万年前に P. falciparum が出現したとされている。
琉球列島では,1 万年前というと氷河期が終わり,現在の東シナ海がいくつかの巨大淡水湖から海洋へと変化した時期に当たる。氷河期には八重山諸島全体が中国大陸と陸続きになっていただろう。西表島で一番古いマングローブが出現したのは 8,000 年前なので,鳩間島もそのころに西表島と陸続きが解消され.島になったのだろう。
八重山諸島にはもともとマラリアはなかった。1530 年代に西表島の仲間川の河口に漂着したオランダ船があって,その時に船に乗っていた人たちがマラリア原虫を西表島に持ち込んだという説は,おそらく確かだろう。それ以降,西表島では 400 年以上にわたってマリアの脅威に苦しめられてきた。
西表島でマラリアが終結したのは,1961 年である。しかし,私が 1972 年に西表島(網取)に行ったときには,夜になるととんでもない数のハマダラカ(種類は不明)が現れた。こんな状態でよくマラリアが根絶できたと思う。
図 14.西表島・網取集落の子供たち。昭和 33 年(1958)ごろに撮影(通事孝作 「廃村に追い込まれた網取」から転写)。1958 年と言うと,西表島ではまだマラリアが残っていたと思われる。網取や崎山には何種類のハマダラカがいたか知らないが,マラリアで亡くなるのは乳幼児が多かったのではないだろうか?
図 15.鳩間島の北海岸に広がるサンゴ礁原。梅雨明けもあって,2024 年 6 月 30 日はすごく暑い一日であった。島の北側の海岸沿いの小道を歩いているときに,水中眼鏡とシュノーケルを持って海に入って行く青年を見かけた。小道の脇に自転車が置いてあったので,島の南側にある集落から自転車できたのだろう。集落から 10 分かそこらでこの場所につける。鳩間島では昼過ぎになると,桟橋に小舟(ボート)が接岸する。観光客を乗せて,サンゴ礁の遊覧をするか,ダイビングを指導している人たちがいる。私の勘では,彼はボートに乗って観光客やダイバーを案内する仕事(アルバイト)をしていると思う。昼頃は時間が空いていたので,気分転換に泳ぎに来ていたと思われる。一見して海は浅そうに見えるが,リーフの内側はそこに足が底につかないほど深くなっている(特に満潮時)。小学生ぐらいだと満潮時の前後に泳ぐのは,絶対にやめた方が良い。リーフの縁が浜から近い海岸は,砂浜から 5 m も行けば深くなる。泳ぎが達者になってから来たらよい。
図 16.鳩間島の北側海岸沿いの小道。鳩間島のサンゴ礁原には,アナジャコやスナモグリはいない。アナエビ類(Axiidae)もいたとしても,サンゴ塊の中に入り込んでいるので,まず採集は無理である。だから,鳩間島で泳ぐことはなく,海で使うシュノーケルや水中メガネも持って行かなかった。・・・というか,私は琉球列島に調査に行っても,サンゴ礁原で泳ぐことはまずない。海岸沿いの植生(vegetation)に興味があったので,小道を歩きながら両側に見られる草木の写真を撮った。樹木や植物群落を破線で囲い,種名を入れたので,見苦しい写真になった。しかし,私の場合には,写真展に並ぶ画像は何を主張したいかわからないので,全く興味がない。写真の解説も必要だし,場合によってはこの図のように画像にいたずら(?)も多い。文字だけだとイメージが浮かびにくい。写真の奥に集落に向かう家族 5 人の後ろ姿が写っている。海岸に打ち上げられたごみを拾いに来たようだ。鳩間島に移住した家族と思われる。どうやって生活しているか,ちょっと気になった。
図 17. ランタナの花にとまるリュウキュウアサギマダラ。撮影に使用したカメラの機種は SONY RX10Ⅲ。近澤峰男さんからお借りしているが,大分使ったので,ピント合わせに少々難が出てきた。SONY RX10(レンズは Zeiss 製)は,昆虫の撮影には向いている。ボディは中古品(できたら B ランクよりも AB ランクが良い)で全く問題ないが,バッテリーは純正品を買わないと発火の恐れがあることに気付いた。(カメラが使用中に異常な熱を持つ。)
リュウキュウアサギマダラの幼虫の食草はツルモウリンカ。キョウチクトウ科に入る。ツルモウリンカはアルカロイド毒を持っており,チョウの体内に取り込まれ蓄積する。この毒は,成体になっても体内に残るため,野鳥は警戒してこのチョウを食べることないようだ。もっとも,間違って食べた場合には,すぐに吐き出してしまう。リュウキュウアサギマダラの翅は,警戒色でも警告色でもないと思う。翅の痛んだ個体が少ないので,鳥には襲われにくいだろう。鳥は高い学習能力を持っている。
図 18.(左)センダンの幹にいっぱいたかってうるさく鳴くクマゼミ。クマゼミはなぜか海岸沿いのセンダンに集まる。(右)集落内にある食堂。大変旨そうだが,ここで食べてしまうと,上原にある川満スーパーで夕食をまた買うことになるので(土日は熱研では食事なし),我慢した。ビールもうまそうだが,飲んだら上原港から宿舎に帰れなくなる。
図 19.鳩間島から見る西表島と外離島。西表島は,いつごろから「いりおもてじま」と呼ばれたのか知らない。また,外離島は「ソトパナリ」と呼ばれているようである。私はさすがに「にしおもてじま」とは言わないが,「そとはなれじま」とか「うちはなれじま」とか,適当に呼んでいる。難読漢字にはそんなに強い関心はない。西表島から鳩間島はよく見える。逆に鳩間島の南側半分の海岸から西表島がよく見える。午前中に鳩間島の海岸沿いの小道を集落の方に向かってトボトボと歩いていた時に,木々の間から西表島が見えたので写真を撮った。手前に写っているのは,星砂の浜から住吉のあたりだろう。奥に写っているのが外離島である。撮影に使用したカメラは Canon EOS 7D, レンズは「Tamron 28‒300mm F/3.5‒6.3 Di VC PZD for Canon」。ともにカメラのキタムラで中古品(EOS 7D が 2.8 万円,レンズが52,600 円)を購入した。EOS 7D は,EOS Utility というソフトをパソコンに入れると,モニターを見ながらシャッターを押せる。顕微鏡撮影には大変便利である。Tamron のレンズも良いのだが,ズームにすると遠くの目標が手前の目標に比べて相対的に大きくなる。外離島も見た目よりも相当大きな感じがする。
図 20.鳩間島から見た外離島。写真(図 19)に写っている範囲を,1.5 km(図 20 の両方向の矢印)に描いたが,実際には 1.2 km ぐらいだろう。(要するに矢印が少し長すぎた。修正していない。) 西表島は北西方向に向かって少しずつ海に沈んでいるのだろう。西側海岸から北側海岸にかけて,ものすごく険しい崖が連なっている。西表島の山の中で道に迷うと,すぐに崖の上に出る。上から急斜面を見ていると脳がパニックに陥り,正常な判断ができなくなる。「いや・・・,これぐらいなら降りられる!下れば下に道があるはずだ・・・。」と思い込んでしまう一瞬がある。脳がパニックになったときには,新しいことを考えずに,とにかく元来た道を根気よく探すのが良い。迷いやすいところには,木の幹に赤色,ピンク色,または白いリボンが巻いてあることが多いので,まずは足元に注意してリボンを見つけたらよい。道に迷えば命の危険が伴う。しかし,道に迷って始めて命の大切さがわかるということもある。何事も経験が大事である。図 19 の写真では見えていないが,外離れ島のさらに南西側に「ゴリラ岩」がある。外離島の縁も方向によっては,多少ゴリラっぽく見えるが,ゴリラ岩になるとさらにゴリラの横顔っぽい感じが強くなる。
図 21.船(チャーター船)から撮影した外離島(全形)。外離島の標高は,最も高いところで 130m ぐらい。写真の左半分の標高は 100 m 程度なので,垂直の崖の高さは 30m ぐらい。右端の崖の形状は,ゴリラの横顔に似ていなくもない。島全体が砂岩でできているのではないだろうか?1,400 万年前(新生代第三期中新世) に隆起して西表島と地続きになったり,海で隔てられたりを繰り返して現在の姿になったのだろう。1966 年(昭和 41 年)3 月 8 日に撮影(沖縄公文書館所蔵)。
図 22.祖納岳中腹にある休憩所から見た西表島西海岸の地形。中央やや左側には火の見やぐらがある。20m はありそう。こんな高いところに登れる人はいるのだろうか? 右側にはゴリラ岩。外離島は木の陰に隠れて見えない。撮影は 2007 年ごろ。壊れかけた Pentax K-r で撮った。雨の降る直前の写真で周囲は相当暗い。
図 23.鳩間島の集落で見かけた置物。シーサーかと思いきや,漂着したブイにヒトや動物の絵が書かれていた。人は住んでいると思う。シーサーは高額なので,大きいのはなかなか買えないが,ブイに絵を描くのであればほぼタダ。琉球の島々であれば,このようなモニュメント(?)は島の風景に良くマッチするが,岡山あたりだと何か強烈な違和感を醸し出しそうである。モニュメントは,強い風が吹いたら道路に転げ落ちるだろうし,琉球石灰岩を積み上げた石垣も,大きな車でも通ればすぐに崩れ落ちるだろう。近所からすぐに苦情が来る。市役所からも改善の要望が出されるだろう。
こんな粗末な石垣とへんてこなモニュメントは,豊かな自然に囲まれた島に独特な景観をもたらしている。この家の中にも昔の生活を大事にしながら生きている人がいるだろう。島のインフラは予算の都合上,都会と同じようには整備できない。島独特のノスタルジックな景観が長く続いて行くと思われる。
図 24.鳩間島から西表島に向かう東海丸。総重量は 20 トンぐらいか?1966 年 3 月 8 日撮影(沖縄公文書館所蔵)。鳩間島の中央には現在(2024)と同じように灯台がある。1966 年 3 月に鳩間島や西表島で琉球政府関係の調査が行われたのだろう。鳩間島の調査を終えて西表島に向かうのか,石垣島に帰るのか不明。
図 25.東海丸からこちらの船(船名は不明)を見ている人たち。東海丸はインターネットを検索しても出てこない。総重量は 20 トンぐらいと思われる。貨客船に分類されるのだろう。乗船している人数は 31 名とみた(多分客室には誰もいない)。女性は一人もいない。乗船者はみな好き勝手にあちこちに座り込んでいる。西表島の北側の海域はうねりが高く,船はすごく揺れる。とにかく危なっかしいが,多くの若者がこちらを見て楽しんでいるようだ。写真は沖縄公文書館所蔵。撮影者不明。
図 26.石垣港から鳩間島に向かう安永観光のフェリー(いりかじ)。「いりかじ」は漢字で書くと「西風」となるのだろうか?小浜島の北側から西表島の北側の海岸沿いを進み,上原航路(図 20)から分かれて右に大きく舵を切る。総重量は 187 トン,乗船定員は 198 名。船首は双胴型の構造をしている。双胴型の船首は,バルパスバウ型の単頭の底に比べて造波抵抗を打ち消すのに優れている。・・・というよりも,おそらく横揺れが少ないのだろう。写真は,「面舵(おもかじ)いっぱい」の直前。
図 27.鳩間港を後にして上原港に向かうフェリー。デッキには両手を挙げて嬉しそうにしている女性が乗っていた。紺色の T シャツを着て白いマフラーをつけた人たちは,石垣港の桟橋でよく見かける。離島に医薬品とか医療器具を運んでいると思うが,どういう組織かインターネットでは検索できなかった。もう一度図 25 を見てほしい。東海丸に乗ってこちらを見ている人たちの笑顔には,この女性の笑顔と共通するところがある。東海丸に乗船している若者たちは,太平洋戦争中に生まれ,現在は全員が 80 歳を超えていると思う。東海丸からこちらを見ていた多くの若者の想いは,フェリーに乗っている若者たちにそのまま引き継がれている感じがする。
<調査,写真撮影,原稿執筆の基本情報>
・調査者:三枝誠行(生物多様性研究・教育プロジェクト常任理事)。
・調査場所と調査日時:2024 年 6 月 30 日,鳩間島。
・撮影者と原稿の執筆:三枝誠行。
・編集:生物多様性研究・教育プロジェクト。PDF ファイルの入手は saigusa@biodiv-p.or.jp に連絡されたい。
<参考文献>
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- 山田俊弘 2018. マラリア危機一髪,とある熱帯林研究者の奮闘記:忍び寄るマラリア〜マラリアとはどんな伝染病なのか? BuNa No.7.
- (https://buna.info/runningstory/1443/)
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