生物多様性研究・教育プロジェクト(研究と教育の原点を考える) V. ブッポウソウの飛来と子育て 2024‒No. 3: 誰がブッポウソウの研究を許可したのか?

2024年6月3日(月)

1.はじめに
 私たちの組織(NPO法人 生物多様性・研究教育プロジェクト)の場合には,ブッポウソウの研究を許可しているのは,環境省でもないし,岡山県自然保護課でもない。当然ながら吉備中央町でもないし,大学でもない。
 昨今は,野生動物の取り扱いにおいて,国際水準では動物倫理(animal ethics)について明記することが求められている。


Animal ethics statements:
1. Name of the authority that granted ethics approval (permits field and observational work):
生物多様性研究・教育プロジェクト(The Biosphere Project, Non-Profit Organization; Director Dr. M. Saigusa)。
2. Name of animal care guidelines relevant to author institution and study site.
鳥獣保護法(環境省),岡山県動物の愛護及び管理に関する条例,吉備中央町自然保護条例など。


 ブッポウソウを研究する者が,大学や研究所に所属している場合にはそれらの組織と研究者の名前を書けばよい。大学教員はみな教育職であるが,ブッポウソウの生態学的研究であれば,よほどのことでない限り大学の研究倫理委員会に諮る必要はない。ただし,形式的であっても,研究の許可は大学が出すことになる。学生や研究生は,指導教員の許可が必要になる。

 何かトラブルが起きて,研究の許可に関して大学に問い合わせると「そんな研究を許可した覚えはない」という返事が返ってくると思う。大学が法律に無知だからそう言う返事になるのだが,トラブルが起きた場合には教員個人が対応した方がよい。大学が仲介すると,仲裁者(人任せ)によってはとんでもない結末になる。悪いこともしていないくせに一方的に謝らされるのは困る。自分を守ってくれるのは日本国憲法であって,大学や県,市町村の役所ではない。誤解なきようお願いしたい。

 団体の場合には,所属している組織,例えばブッポウソウ会であれば吉備中央町協働推進課,野鳥の会の会員であれば,日本野鳥の会岡山県支部が認可の責任を負うことになろう。ただし,これらの組織はいずれも,研究を目的に設立された訳ではないので,研究を許可することはできないと思う。保護とか写真撮影とか,そういうことならば吉備中央町の協働推進課や野鳥の会岡山県支部に尋ねてみたらよい。

 野鳥の会の会員,ブッポウソウ会の会員,またこれらの組織に属さない人たちの中で,ブッポウソウの研究をしたいと思う方がいれば,まずは動物の生態に関して実績のある研究者(ブッポウソウには限らない)と共同で研究するようにしたらどうだろうか?私の今までの経験から,山科鳥類研究所は既得権益の権化みたいなところで,共同研究には向いていない。(というか,向こうも承諾しないだろう。)

 一方,日本の社会ではまだ野鳥の研究者を育てる研究・教育システムがないので(名称だけならあるが機能していない),外国の連中と互角に渡り合える研究者になろうと思えば,並大抵の苦労では済まない。これは覚悟されたい。

 研究として実施するなら,実施したエビデンスとして原著論文(英語)を出すのは当然の義務である。俺は英語が読めない,書けないという人は,Editageに翻訳を頼んだらよい。翻訳料は高額になる(たぶん20~50万円ぐらい)が,新車を買うのをあきらめて中古車を買えば,翻訳料は十分捻出できる。そんなことはできるかバカヤロウと思う人は,自分のやっていることは研究ではないと思った方がよい。またpredatory journalに投稿する手もあるが,高額の出版費(30万から50万)がかかる。そんな大金を払って論文をパブリッシュしても,引用数はゼロ。

 英語で論文を書くのは並大抵の作業ではない。TOEICの点数が500点とか600点でも,英作文を課すと意味不明で,数行も読めない文章を書いてしまう学生が多い。大学入試センター試験の成績が良いだけで大学に入学すると,筆記試験が全くダメな人が出てくる。大学に入っても,「論文の書き方」などという授業科目はあるだろうが,大学教員の誰も「英作文」の授業を実施しようとしない。正解が不明とか複数ある設問は,正解例を公表した際に社会から徹底的にたたかれる。これらの類の設問は,論理的思考を採点しているのだから,正解がないケースや複数の正解があるケースは多く出てくるだろう。しかし,そもそも論理的思考自体が何をもって論理的と言えるのか,意見は人によって大きく異なる。理由はどうあれ社会に対して迎合性を強くアピールするチョンチョロゲじいさんたちがいる。

 正解は絶対にひとつという考え方(視野の狭い実証主義)には,強い宗教性を感じるばかりか,恐怖感すら覚える時がある。これが蔓延すると,幼稚性の高い学問(例えば電気生理学とか)が好まれるようになる。先進性と幼稚性は,おそらく紙一重の違いである。逆に,薄っぺらい仮説・検証主義が横行すると国は乱れる。

 英語で論文を書くというのは並大抵の作業ではないが,英作文の授業はすごく楽しい。私は,大学時代には英作文の書き方という薄い冊子を購入し,半年間かけて自分一人で勉強した記憶がある。正解は,模範解答と大きく違っても気にはしなかった。英作文に上達する早道は,卒論や修論を英語に訳して,専門誌に投稿してみることである。Editorが面白い仕事だと思えば,論文をjournalにパブリッシュできるレベルに引き上げてくれる。原稿は,何度も著者とeditorの間を行き来するが,行ったり来たりを繰り返すうち英作文の能力は上達する。つまり研究活動を国際的水準で行うことができるようになる。

 アマチュアの研究でも,成果をpublishしてくれるjournalはある。Bird Studyはimpact factorは0.8~1.1ぐらいで高くはない(Zoological Scienceとほぼ同じ)。もちろんpredatory journalではない。そんなjournalに原著論文をパブリッシュできれば,研究に弾みがつくだろう。私は,Bird Studyには一度投稿したことがある。野鳥における最初の論文ということもあり,結果はrejectであったが,editorから出されたコメントは極めて有益であった。Editorからは改善案(editorの指示に従って改善すれば再投稿は可能)が示された。

 だが研究室でトラブルが勃発したので,editorの示した改善案に沿って論文を改定する方向には進まなかった。Bird Studyはあまり癖のないjournalのような気がする。アマチュアに対しても門戸が開かれている。将来実証主義に走るにせよ,仮説・検証主義に走るにせよ,若い人たちはまずこういうところから始めるのはどうだろうか?まずは日本語でというとんでもなく時代錯誤の人がいるが,こういう人はずっと日本語でしか論文を書けないし,野鳥の研究でも大した成果を上げることはできないと思う。英語で原稿を書き,とにかく必死になって自分の研究を理解してくれるeditorを探すことである。Predatory journalのeditorは大甘なので,悪魔のささやきにはくれぐれも警戒を怠らぬようにしたい。ここが正念場というか我慢のしどころである。

 ある程度英語が書けるようになると,外国に出て研究成果を発表するよう求められる。英語を書ければ,英語を話すのはそれほど難しくない。要するに度胸の問題である。学生が英語を聞いたり話したりできる環境を作るために,教室に一人英語を教えられる教員(専任のネイティブ・スピーカー)を配置したらどうだろうか?専門分野は特に問わず,生物学のいろいろな分野で専門用語をどう使うのか,また専門用語を駆使してどんな会話をすればよいのかを教えていただければよい。Listeningとかspeakingの能力は,場数を踏んで上達する。

 日本の科学者は,競争の激しさに目がくらんで,目先の利益に溺れてしまっている。こういう方々はいつも自分の利益だけ考えていて,英語の教員など採用してもどこにどう役立つのかと思っておられるようだ。だから,自分の研究室に(自分の)研究を進めることのできる人のみを採用したがる。しかし,目先の利益を優先するなら,人に頼らず,自分で汗水たらして働いたらどうか,と言いたい。

 ところで,論文の執筆者の所属(institute)については,多くの国際誌では,土壌生物学,水生生物学,海洋生物学,動物行動学,自然環境科学というような個別の名称になっているが,日本では判で押したように理学部,工学部,農学部等の古い名称の所属が名を連ねている。学部の名称については,教養部(College of Arts)などは学部でもなく,大学では最も地位の低い組織という大学内でのコンセンサスがあった。教員も,理系に関しては「掃きだめ」と揶揄される人々(私も含む)で構成されていた。太平洋戦争中の軍隊組織にも,似たような差別感覚や蔑視感覚は強かっただろう。それが戦後もそのまま残ってしまった。旧帝大系の序列がいつまでたっても変わらないということも,大学に対する偏見が社会に蔓延しているせいもある。地位とか評判にこだわって,格下の組織を蔑視することが大好きな人たちが,学会や大学の中枢部に巣くっていることは忘れない方がよい。こういう人物が暴れだすと,手が付けられない。事務職の(賢い)人たちはわかっているはずである。

 日本では野鳥を含めて動物生態学が育っていない。(植物の場合には,例えば光合成という実験的な証拠を基礎にした生態学がある。)前回の記事で述べたように,なぜ動物生態学が育たないかに関して,日本の科学界には根本的な原因があるように思える。

 生態学は「仮説・検証型」の学問である。仮説・検証型の学問を推進してきた生物学者は多い。古くは矢田部良吉や渡瀬正三郎とか,最近では梅棹忠夫氏(卒論がまさにそれ)や日高敏隆氏が典型的な人物だろう。里山という実証のできない概念を広めた四手井綱英氏なども,そういう類の人たちに入る。かつて日高敏隆氏の周辺には,バカボンのパパキャラを強く匂わせた人々が集まっていた。本人は,「梁山泊」(近くの飲み屋の名前)とか言っていたように思う。仮説・検証型の学問を推進してきた生物学者は,バカボンのパパキャラが匂う人々のような気がする。私はそういう集団の中には入ってゆけなかったし,梁山泊における飲酒外交などまっぴらごめんであった。

 仮説・検証主義と言っても,中身は神秘主義である。具体的には,「風吹けば桶屋が儲かる」という仮説を,バカボンのパパよろしく,いかにうまく説明できるかを競う考え方である。学問の基礎に実証的な証拠は不要である。ただ面白おかしく説明できれば良いのである。その意味では,分類学も同じである。正しいか間違っているかは直感と経験で決める。生態学の分野には,実証的な学問を嫌う人々が集まっているのだろう。

 生態学の基礎になる仮説・検証主義についてさらに言えば,伊藤嘉昭氏などもバカボンのパパキャラを漂わせている。バカボンのパパなら,アブラナ科の植物を捕食するモンシロチョウの幼虫の数を数えて個体群生態学だなどと言えるのかもしれない。バカボンのパパの言う「検証」は,統計学や初歩的な実験なのであろう。緻密なデータ収集を行おうとすると,descriptive(記載的)なデータは意味がないという。アブラナ科植物につくモンシロチョウの幼虫を5~6匹もカウントすれば,個体群生態学になるのだろうか?さらに言えば,毎年ブッポウソウの産卵がいつ始まるかを何年にもわたって丹念に調べた記録も,記載的なデータだと言ってバカにしてくる。ならば,鳥が魚を右から襲うか左から襲うかを何年にもわたって調べたデータも記載的な記録であろう。しかも,そちらは左右性発現の生理学的メカニズムを全く説明できていない。

 結局,バカボンのパパキャラを持つ人々は,実証的学問を拒否しているとしか思えない。だから,丹念に取った観察や実験のデータをdescriptiveとか言ってバカにするのではなかろうか?狭量な実証主義者が,私の実験や観察を野外に出て遊んでいると思っているように,生態学者は私のことをdescriptiveなデータしか出せない無能な男だと卑下したいのだろう。ついでに言えば,生態学者はファーブルのことも大変バカにしているに違いない。

 しかしながら,高等学校の生物の教科書(生物Ⅱ)を見るとよくわかるように,生物学の世界には実証主義の波が押し寄せている。神秘主義(仮説・検証主義)として残る分野は,生態学,行動学,心理学,系統分類学,進化学である。いずれ実証主義に飲み込まれてしまうだろう。動物学(zoology)は,すでに神秘主義から実証主義を基礎とする学問へと変わりつつある。

 物理学,化学,分子生物学の分野では,没個性的な論文(つまり視野の狭い実証主義)を書くことができる。物理学,化学,分子生物学の論文の執筆は,将棋の対局と感じが似ている。つまり,生成AIを使えば,効率的に論文を書くことができる。材料を変えて,数値を変更すればどんどん新しい論文が書ける。丸山工作氏などは,そういう考えの人物だったように思える。生成AIが入り込むのが難しい分野でも,論文の書き方の事例を各分野で集積し,日本語との対応がつけられれば,原著論文としては優れものになるだろう。

 生成AIが書いた論文ならば,predatory journalが受け入れてくれる。しかし,どうせpredatory journalを発行するのであれば,Journal of Generation AI (Biology)を発刊して,そこに論文を掲載すればよい。AIに論文を書かせるから犯罪になる。日本語で原稿を作り,それをAIによって英語に翻訳したということであれば,法律的には問題にならない気もする。現に,NHKのAIによる音声放送もそうやっている。Editageもそんな方向を進めているのではないか?Journal of Generation AIは,高いインパクトファクターが稼げそうな気がする。

 仮説・検証型の学問については,今やAIの方が,人間がやるよりもより客観的で,遥かに高いレベルの仮説を提示できる。シミュレーションにかけては,AIの能力は人間をはるかに上回るレベルに達している。生態学,分類学,行動学,統計学などの仮説・検証型学問の分野においても,AIに太刀打ちできない時代に入っている。Journal of Generation AIが生物学だけでなく,物理学,化学,地球科学,数学に至るまで自然科学のあらゆる分野に登場したら,これは人類史に残る大きな問題を提供することになる。人間とAIの競争が始まるからである。AIが人間の能力を全面的に凌駕する日はそう遠くない,と私は踏んでいる。

 その時には,現在の仮説・検証型の学問(神秘主義)は自然科学の世界から排除されるだろう。そして現在流行りの分類学や生態学,進化学は「文学」として社会に残ってゆくだろう。畑正憲氏は,若いころからそれを察知していて,動物学教室に長く在籍する気にはなれなかったのではないか?畑正憲氏の影響を強く受けたのだろうか?私の周りには,麻雀に異常な情熱を燃やしていた大学院生が何人もいた。(私はマージャンや将棋は異常なくらい下手。先が全然読めない。)

 Predatory journalについては大きな問題が指摘されている。そういうjournalを直感的な判断でpredatoryと決めつけて,自分たちの権威や地位の保全を図ろうとする人々(predatory people)がいることを忘れない方がよい。何だか教育委員会のやっていることを揶揄するような発言になってしまった。隠れpredatory peopleは日本の科学界の重鎮にも多く見られる。それどころか,日本の多くの学会を牛耳っているのが現状である。Predatory journalかどうかを判断するのは研究者個人であって,教育委員会でもなく,教科書検定委員でもない。ましてや,偉そうなことを言っている大学の図書館でもない。もちろんpredatoryかどうかを判断する材料は,各方面からたくさん提供していただけるとありがたい。総合的な判断が期待できる。

 Predatory journalの判断は,研究者によって分かれている。これは,何がpredatoryかの理解が研究者によって大きく異なるためである。相反する考えの人たちが自分たちの利害関係を背負って発言するため,議論はいつまでたってもまとまらない。組織として注意を喚起することはできても,法律的に規制することはできない。だから,どこかの機関でpredatory journalに認定された場合には,認定した機関と組織の長を名誉棄損で訴えることができる。一方,predatory journalの名(name)を掲載することが,公益性の向上に寄与するという判断が下されれば,損害賠償はしなくて済む。処分もされないはずである。しかし,判断(判決)はどちらに転ぶかわからない。

 Predatory peopleは実証主義の分野にもいるし,神秘主義の分野にもいる。こういう人々が大学,研究所,学会という組織の中で自分たちを権威付けするためにpredatory journalを目の敵にしている可能性もある。だから,predatory peopleの言うことを真に受けて一緒になって排斥していると足元をすくわれる結果になる。同じ実証主義でも,視野の広さは人によって大きく異なる。また,バカボンのパパキャラを持つ人だけがpredatory peopleという訳でもない。はっきり言えることは,二宮金次郎みたいな生き方になると,predatory peopleにすぐ騙されるということである。銅像を壊してしまえば,問題はすべて解決できるほど社会は甘くない。

 面白いことがひとつある。仮説・検証型の学問をする人の特徴は,自分の好き勝手に学問を進めていることである。だから私もそういう嫌な人間の一味なのだろう。一方,実証主義の傾向が強い人たちは,見かけはすごく潔癖なのだが,欠点は自分の主義・主張をとにかく他人に強制したがることである。そのために狭量な実証主義者の集団(医学部を先頭にして,理系の多くの学部)では争いごとが絶えない。社会の中で人間関係の在り方が変化してゆくように,自然科学も急速に変化をしている。具体的には,自然科学はますます実証的な方向に向かってゆく。これからの人間は,仕事と心の豊かさのバランスをうまく取れないとノイローゼを患うことになる(真面目な話)。

 ダーウィンとかヘッケルには バカボンのパパキャラが入っている気がする。しかもいっぱい・・・。ラマルクはウソのつき方が下手だったので,キュビエにやられてしまったのではないか?バカボンのパパキャラは必要悪として,人類の生存に大いに役立つ性格かもしれない。危機に陥った時に真剣にバカボンのパパ(うつけ)を演じると,生き延びる道が見つかるかもしれない。これも真面目な話。

2.撮影と執筆の基本情報
<撮影> 近澤峰男。<撮影機材> Canon EOS 7D Mark Ⅱ(レンズはCanon 600mm)。
<執筆> 三枝誠行(NPO法人 生物多様性研究・教育プロジェクト,常任理事)。

3.参考文献
・石原勝敏・庄野邦彦(2010)新版生物Ⅱ。実教出版。
・Ferl, Robert J., and Robert A. Wallace (1996) Biology: The Realm of Life (Third Edition). HarperCollins College Publishers.
・伊藤嘉昭(1959)比較生態学。岩波書店。
・Saigusa, M. (1978) Ecological distribution of three species of the genus Sesarma. Zool. Mag. (Zool. Sci.) 87: 142‒150. in winter season.Zool. Mag. 87: 142-15

図 1.林内を飛ぶホトトギス。平成 29 年(2017)9 月 9 日。撮影場所は不明だが,近澤さんのお宅の近くにある林で撮影したのだろう。ホトトギスの鳴き声を聞くと,今年もちゃんと夏が来たという実感がわく。ヒトと違って,野鳥は circannual clock(概年時計)を持つ。野鳥の概年時計は産卵や子育てを行う内分泌機構のタイミングの調整に関与している。ヒトも持っている概日時計は,毎日の活動(locomotion)のタイミングを制御している。野鳥は概日時計を持っているのか,よくわかっていない。概年時計の内分泌学的・生態学的研究はこれから大きく発展するはずである。

図 2.サクラの枝の上で休憩をとるホトトギス。平成 26 年(2014)9 月 3 日に撮影(場所不明)。ウンチをするときにはおしりを持ち上げてピッと出す。人間で言えば中腰の状態。しばらくすると枝の上に体をどっかりとのせる。野鳥といえども中腰で長時間いるのは結構しんどいのかもしれない。

図 3.ガ(種類は不明)の幼虫を運ぶホトトギス。胸部に発現する縞々の鮮やかなのはメスだろうか?ガの幼虫は,おそらく人は苦くて食べられないと思うが,野鳥は割と平気で食べる。もし猫のえさを食べるようになったら,こんな苦い食べ物は拒否するだろう。ぴよ吉はもう昆虫は食べない。

図 4.アカマツの枝にとまって一休みするホトトギス。こんなに障害物が多いところにいて,よく目をケガしないものだと感心する。人間は野鳥の姿をめでるだけでなく生態や行動にも注目したら,人間自体の心も豊かになる。平成 26 年(2014)9 月 9 日。撮影場所は不明だが,近所の公園だろう。

図 5.杉の枯れ枝にとまるホトトギス。平成 27 年(2015)6 月 2 日,岡山県と兵庫県の県境にあるダルガ峰(N 35°12’32”; S 134°22’48”; 標高 1163m)の登山道で撮影。近澤さんは平成 24 年(2012)から平成 29 年(2017)にかけて,日本列島のあちこちに出かけて野鳥の写真を撮影した。

図 6.ヒノキの枯れ枝にとまるホトトギス。平成 27 年(2015)6 月 3 日ダルガ峰で撮影。ダルガ峰での撮影は,2 日間かけて行われた。胸部の茶色い縞模様が美しい。ホトトギスは,胸部の羽毛に縞々を作る遺伝子を持っている。遺伝子発現の機構はわかっていると思う。実証的生態学の一例である。

図 7.マメ科の木の枝にとまるホトトギス。平成 26 年(2014)9 月 3 日。撮影場所不明。この個体の胸部は縞々ではない。ちょっとした発生の加減で縞々が崩れるのであろう。縞々が発現しない場合には,胸部は地の色(薄い黄色)になるのだろうか?縞々の機構がわかれば,将来は赤い縞々のホトトギスなども作ることができるかもしれない。あまり生態的意味はないと思うが・・・。まあ,自然の色はうまくできている。それも丹念な観察に基づいて確信できることだろう。私には,アブラナ科植物1本につくモンシロチョウの幼虫の数をカウントしても,自然の本当の姿が見えてくるようには思えないのだが・・・。現在の個体群生態学の研究よりも,私にはファーブルの昆虫観察の方がよっぽど近代的な研究という感じがする。

図 8.ガの幼虫をくわえてウメの樹の枝にとまるホトトギス。自分で食べるのか?あるいは巣の中にいるヒナにやるのか?撮影は,平成 27 年 9 月 4 日なので,近くで待っている巣立ち後の幼鳥に与えるのかもしれない。ホトトギスの渡りのタイミングがわかったら面白い。ブッポウソウほど集短い期間に集中していないような気がする。・・・とすれば,一匹のメスの産卵数と個体群全体の平均産卵数は,年によって有意に異なるはずである。

図 9.広葉樹の枝にとまるホトトギス。平成 26 年(2014)9 月 3 日。広葉樹の種類はわからないが,葉や幹の色模様から,奄美大島で見たイズニセセンリョウに似ている(見かけだけど・・・)。胸部の羽毛には,換羽の時期に短期間羽毛をこげ茶色にする遺伝子が発現するのだろう。

図 10.広葉樹の枝にとまるホトトギス。平成 26 年(2014)9 月 3 日。縞々は翼の裏側の羽にも及ぶ。縞々遺伝子の発現は解明できるとしても,その先に遺伝子発現を誘発する環境因子や内分泌学的因子の解析が待っている。動物学(将来の生態学)は,ここまで解明する必要がある。

図 11.広葉樹の枝につかまる寸前のホトトギス。尾羽には白い水玉模様がある。体の部位によって羽毛や羽の形成時に,異なった遺伝子が発現し,いろいろな模様ができるのだろう。野鳥の姿を見て,いろいろな生物学的現象に思いをはせる。これが私の自然の楽しみ方である。近澤さんが撮影してくださった多くの写真は,本当に私の心を豊かにしてくれる。平成 26 年(2014)9 月 3 日。

図 12.ホトトギスがつかまっている樹の種類。イズニセセンリョウに似た樹の名前は,けんきょう?すぐ近くに看板があって,拡大すると「けんきょう」と書いてあるようだ。花はウメに似ていなくもない。それ以上のことはわからない。

図 13.マメ科の木の枝にとまるホトトギス。平成 26 年(2014)9 月 3 日。マメ科まではわかるが,属(genus)や種(species)までは不明。

図 14.「ケンキョウ」の枝にとまるホトトギス。平成 26 年(2014)9 月 3 日。尾羽には水玉模様はなかった。個体変異があるのだろう。

図 15.須留ヶ峰(するがみね)に至る尾根筋に立つ近澤峰男さん。須留ヶ峰は,兵庫県養父市と朝来市にまたがる山(標高 1,054 m)。私は兵庫県の山々には登ったことはない。岡山市内からだと兵庫県の山のふもとまで車で 2 時間以上かかる。近澤さんの撮影した写真があると本当に助かる。

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