2024年2月24日(土)
1.Introduction
私が初めて奄美大島を訪れたのは,1977年(昭和52年)の春だったかと思う。インターネットで1977年のヒット曲を調べてみると,「渚のシンドバット」(ピンク・レディ),「青春時代」(森田公一とトップギャラン),「ウオンテッド」(ピンク・レディ),「勝手にしやがれ」(沢田研二)が上位にランクされていた。大学院時代には,下宿にテレビもラジオもなかったと思うので,巷の情報には疎い生活を送っていた。カセットラジオは持っていたかもしれない。
最初の奄美大島行きには,1年下の植物生理学を専攻する大学院生を連れて行った。この時は,船で大阪湾から奄美大島に渡った。奄美大島からは船で沖縄本島に行き,那覇バスターミナルから名護までバスで行った。さらに辺士名行きのバスに乗り,喜如嘉で下車して昆虫採集をした覚えがある。与那覇岳にも途中まで登ったと思う。
喜如嘉から辺士名までは歩き。辺士名からまたバスを乗り継いで国頭村最北端の「奥」に行った。バスの運ちゃんにどこか民宿はないか尋ねた。すると近くにいたおばちゃんが親切に教えてくれたが,方言がきつくて話が全然理解できなかった。あれから50年近く経つ。忘れたことも多いが,懐かしい過去(いいことも悪いことも)を思い出しながら書いて行けば,ボケ防止に少しは役立つだろう。
次に奄美大島を訪れたのは,2005年(平成17年)3月26日から4月4日である。この時は,干潟の汚染が海洋生物に与える影響の研究(表向きは内分泌かく乱物質だが,実際には干潟に棲む無脊椎動物の‘正常な生活’の調査が主だった。)に入っていた時期なので,記録は良く残されている。この時は干潟に棲むアナジャコの形態異常を研究する大学院生をひとり連れて行った。大学院生の方は小型カメラ(Optio)を使い,私の方はPENTAX K-rにタムロンXR DiⅡ(18~200mm)をつけて撮影したと思う。Optioはresolutionが悪いが,海辺での接写には大きな威力を発揮した。奄美大島には何度も行ったような印象を持っているが,きっと種子島の記憶が入り込んだのだろう。
2.撮影と執筆の基本情報
<撮影場所> 奄美大島。<調査期間> 1回目は1977年4月下旬~5月上旬(バス)。2回目は2005年3月26日~4月4日(レンタカー)。
<撮影日> 2005年(平成17年)3月26日~4月4日(2回目に行ったとき)。1回目の写真はない。
<記事の執筆>三枝誠行(生物多様性研究・教育プロジェクト常任理事)
3.参考文献
・京浜昆虫同好会(編)1973. 新しい昆虫採集案内(Ⅲ)離島・沖縄採集地案内編。内田老鶴圃新社。
・高良鉄夫 1969, 琉球の自然と風物–特殊動物を探る。琉球文教図書社。
図 1.2 回目の奄美大島行き。岡山空港を発ったのは 3 月 26 日。飛行機は北方向に離陸し,岡山県北の山地の上空で U ターンしたのだと思う。真下に見える山々には,尾根筋まで道路が見える。大山(鳥取県)や蒜山(岡山県)ではなく,毛無山(岡山県)の上空ではなかろうか。
図 2.奄美空港。奄美大島の一番北の海岸沿い(東海岸)にある。駐機中の飛行機が 2 機,滑走路に向かう飛行機が左右に 2 機見える。右側の 1 機は徳之島か沖縄本島に行くのだろか?左側の飛行機は,九州か本州に向かうと思われる。奄美空港の左奥にあるのはゴルフ場。右は畑ではなく,田んぼと思われる。飛行場の手前にサンゴ礁原が見えている。飛行場の左側と陸地の間に小さな入り江があり,陸上から泥が流入しているのがわかる。入り江は塩分濃度(salinity)が低く,サンゴ礁は形成されない。飛行場の前面のサンゴ礁原の状況から考えると,奄美空港はサンゴ礁の上に作られたことが推察される。奄美大島の海岸を見渡すと,海の色がブルーでサンゴ礁が発達していると最初は思った。しかし,海のブルーは海岸に土砂が流入して堆積し,光の反射でブルー(奄美ブルー)に見える海岸が多いことがわかる。奄美大島のサンゴ礁とサンゴ礁原は見かけほど発達していない。
図 3.奄美大島の地形。奄美大島(加計呂麻島と周辺の島も含む)には計 12 市町村が設けられている。鹿児島県が発表した 2023 年 4 月 1 日現在の県推計人口は,計 9 万 9247 人(男性が 4 万 8383 人,女性が 5 万 864 人)になっている。1953 年に奄美大島は日本に復帰した。1955 年に復帰後初の国勢調査が行われ,その年には 20 万 5363 人の人口があった。1955 年から 2023 年までの 68 年間で,島の人口は 48.3%に減少した。近くにある喜界島も,2000 年には 9041 人だったのが,2020 年には 6629 人に減少している。両島ともに人口の減少はこれからも続くだろう。人口減と大都市集中の時代だ。
図 4.グーグルマップで見る海岸の崖崩れ。奄美大島の地形を google map pro で見られるようになり,海岸沿いには崖が激しく崩れていることに気付いた。この場所は「住用町大字(おおあざ)市(いち)」と記されている。左側の嘉徳海岸から右側の青久海岸のあたりが写っていると思われる。嘉徳海岸と青久海岸の間に「篠穂の滝」があり,その周辺でがけ崩れが起こったのかもしれない。中央の崖崩れのあった海岸には大量の土砂が流れ込んでいる。砂が海水を通過する太陽光の青や緑の波長をよく反射するため,海の色がブルーになっている。海岸にはサンゴ礁が発達しているようには見えない。
図 5.住用川(西中間)の河口。国道 58 号を住吉町まで行くと,西中間の河口に出る。東仲間と西中間は,現在は住用町に統合されているかもしれない。住用町には住用川と役勝川の合流場所に干潟が広がっている。干潟には,メヒルギを中心としたマングローブがある。最初に行ったときは,住用は虫取りには不向きだったので素通りだったが,2 度目は干潟で十脚甲殻類(アナジャコ,スナモグリ,ハサミシャコエビ,アナエビ)の採集を行った。
図 6.1973 年ごろの住用湾の景観(左図 2 つ)と奄美大島の道路(右図)。京浜昆虫同好会「新しい昆虫採集案内(Ⅲ)」から転写。左図の「皇太子」とあるのが現在の天皇と思う。お立ち台というのは,おそらく急ごしらえの展望台だろう。展望台は現在(2023)もあると思われるが,google map では木の陰に隠れてよくわからない。スタルマタ林道は名前が残っているか不明。住用川沿いに林道がある。この林道で撮影されたかもしれない。右の地図を拡大すると鉛筆書きの日程が出てきた。1 日目には新村に泊ったと思う。湯湾岳は登り口にある展望台まで行った。古仁屋にも泊ったかもしれない。
図 7.住用川と役勝川の河口に広がる干潟。干潟とマングローブの景観は,1973 年から現在まで全く変わっていない。カメラの位置をもう少し奥に倒すと図 6 の左上のモノクロ写真とそっくりな景観になるが,見栄えが悪くなるので,やや高い位置の画像を掲載した。
図 8.スタルマタ林道(?)。現在スタルマタと呼ばれる林道があるかは不明だが,住用川に沿って山の斜面を登って行く林道がある。たくさん電線や電柱があるので不思議に思ったが,林道のどん詰まりには小さな発電所があった。この林道は初夏に樹の花が咲けば,昆虫は多く集まるだろう。
図 9.47 年前に泊った旅館。初めて奄美大島に行ったときに,新村で泊ったのは丸山旅館だったと思う。今も,玄関に「丸山旅館」と名前の入った門灯が立っている。今は廃業しているだろう。1970 年ごろは,新村と油井の間にある「八津野」(図 6 を参照)では,広範囲に自然林の伐採が行われていた。伐採木には,初夏になると数多くのカミキリムシが飛来する。珍しいカミキリムシを採集する人たちは,昔はこの旅館に泊まり,横朝早くに旅館を出て,八津野まで歩いた。今は皆レンタカーを利用するので,丸山旅館に泊る必要は無くなったが,一番大きな原因は,近くで伐採が無くなったことだろう。
図 10.国道 58 号と住用町(旧新村)に新しくできたコンビニエンス・ストア。旧新村の付近は,58 号線のバイパスができた。バイパス沿いにはコンビニもでき,車も結構止っている。どこの島も同じだが,奄美大島も私たちが最初に行った頃(1977 年)に比べて,道路事情は格段に良くなった。丸山旅館はそのあおりをまともに受けたのだろう。人間は常に便利な方についてゆく。また,現在の奄美大島は,以前のように大規模に伐採することは無くなっているのではなかろうか?住用町に来てカミキリムシ(チョウは面白い種類が期待できないと思う)を捕りたいという人は,ほとんどいないのだろう。希少昆虫類の採集情報は,インターネットの裏情報として出回っているのかもしれないが,私は全然知らない。
なお,国道 58 号は,鹿児島県鹿児島市を起点として,種子島と奄美大島を通り,沖縄県那覇市を終点とする一般国道ということである。島々は複数のフェリーで結ばれていて,海上航路部分も国道の扱いである。海上区間は,全体の約 7 割を占める。総延長 609.5 km は,日本列島の中では最長の距離になっている。58 号(国道)と 85 号(県道)の分岐点から古仁屋の方に下りる旧道も,パイパスができて通行がすごく便利になった。
図 11.国道 58 号から分かれて八津野(現在はこの地名はないと思う)に至る旧道。両側にあるガードレールは錆びついている。おそらく 50 年前に作られたのだろう。最初に奄美大島に来た 1977 年には,間違いなくこの道を歩いた。舗装されていなかったように思う。今ここを歩いても虫は捕れない。
図 12.県道 85 号。国道 58 号と紛らわしい。この道を手前側に戻ると国道 58 号に合流する。県道 85 号を真っ直ぐ行けば,湯湾を経て宇検村に出る。左に曲がれば(県道 612 号)篠川に出る。1977 年には道路の右側の山腹では伐採が行われており,伐採木には甲虫類が数多く飛来した。8 月の撮影(google)。
図 13.湯湾岳展望公園。何度も書いたが,1 回目に奄美大島に来た時の記録は全く残っていない。この記事に出ている写真は,2 回目に来た時の写真とgoogle map に出ている写真を掲載している。宇検村の湾の名称は不明。湾には土砂が多く流れ込むのと塩分濃度が低下するので,サンゴ礁はないと思う。
図 14.湯湾岳展望公園。波がなく静かな湾である。海の色は奄美ブルー。奄美大島は奄美市以北に人口が集中している。奄美市より南に下ると,深い山々が連なっており,人口は少ない。自然,特に森と林が好きな人にはお薦めである。南側にある瀬戸内町は,森と海岸(奄美ブルー)の景色が美しい。
図 15.奄美ブルーの海岸。瀬戸内町で撮影したと思うが,この場所がどこか思い出せない。波はなく,穏やか。
図 16.奄美大島の自然林。高等学校の生物の教科書にある「シイ・カシ・タブの極相林」は奄美大島で見ることができる。奄美大島のすぐ北に,トカラ列島の悪石島と小宝島がある。両島の間には,1912 年に渡瀬庄三郎が提案し,岡田弥一郎が命名した「渡瀬線」がある。渡瀬線という概念は,ちょうど形態で生物の種類を判断する分類学と似ている。連続的に変化する事象を,中間を消して強引に分けてしまうという古典的な(主観的な)やり方は,客観性と定量的な基準を使って判断する現代生物学にはマッチしない。そのせいかは不明だが,渡瀬線は 20 年前(?)に高校の教科書から消えた。
図 17.ヒカゲヘゴの群生地。奄美大島にはヒカゲヘゴ(シダ類)が目立つ。シダ類は現在では,大葉類が主流になっているが,古生代には小葉類が栄えた。大葉類が出現したのは中生代と思われる。サンゴ礁とサンゴ礁原も中生代のジュラ紀あたりから発達したような気がする。国道 58 号沿い。
図 18.国道 58 号沿いの空き地に入って写真撮影。場所は全く覚えていないが,きれいな花が咲いていた。この時期(3 月終わり)だと,チョウや甲虫は少ない。4 月半ばを過ぎれば,リュウキュウアサギマダラ,ナガサキアゲハ(後翅に白紋が発達),モンキアゲハ,キチョウが見られるだろう。
図 19.空き地に咲いていた花。ツツジのようにも見えるが,種類は不明。本州では見かけない。
図 20.国道 58 号沿いの空き地でみかけた花。花弁(ガクか?)は明るい紫,葉は外縁を濃い赤色でおおわれている。きれいな花だが,種類は不明。
図 21.道(県道 85 沿いか?)の脇にあった小さな伐採地での叩き網。3 月末だと甲虫はほとんど発生していない。したがって,叩き網でも虫は全くというぐらい落ちてこない。5 月に入れば,伐採木や伐採枝には甲虫類が多く集まる。カミキリムシは,奄美大島では梅雨の時期が一番面白いかもしれない。
図 22.イズニセセンリョウの花。奄美大島では 3 月終わりから 4 月にかけてイズニセセンリョウの花が咲く。地味な花だが,訪花性の甲虫が多く集まる。アマミアカハネハナカミキリ,アラカワシロヘリトラカミキリ,ミドリヒゲナガコバネカミキリなど。カミキリムシの名前(和名も学名も)には,人名が多くつけられている。採集しているとカルタ遊びか百人一首をやっている感じになってきて,すごくイライラする。収集家の世界はこりごりである。
図 23.アカハネムシ。アマミアカハネカミキリと同じ時期(3 月下中から 4 月)に成虫が羽化する。晴れた日には,アマミアカハネカミキリと同様に,開けた空間を飛ぶので紛らわしい。つかんだとき腹部から変な臭いのする黄色い液体を出す。ホタルといっても,腹部の末端は光らない。
図 24.イズニセセンリョウの木に登って(降りて?)いるところ。本格的に昆虫採集をやっている訳ではないので,捕虫網をつける「さお」(rod)は短いのを持って行った。上の方に咲いている花をすくおうと思えば,木に登ることになるが,木が揺れるので虫は逃げてしまう。
図 25.野生のヤギ。奄美大島には野生のヤギがいる。メス親が子供 2 匹を連れて逃げているところ。野生のヤギは,アマミノクロウサギとかルリカケスのような奄美大島の固有生物に悪影響を及ぼす可能性は低いように思われる。今のところ人間とも共存可能だろう。一方,マングースは渡瀬正三郎が進言してハブの駆除のために放逐した。生態系に与える影響は大きく,現在は沖縄本島で駆除が進んでいる。奄美大島にはマングースはいなかったか?
図 26.ヤギの親子。メスは性格が穏やかだが,オスは大きな角を持っており,ものすごく威厳がある。オスが率いる集団は人には近づいてこない。威厳があるとメスには好かれるようだ。この親子,右側の子供の顔は母親にそっくりである。野生動物の大きな問題は,保護すると急激に個体数が増加する種がいることである。ヤギがイノシシみたいにならないことを祈っている。イノシシよりはヤギの方が人慣れしてかわいい。
図 27.油井の公園。子供も親も全然見かけなかった。西表島もそうだったが,公園を作り遊具を置いても,肝心の子供たちが遊びに来ていない。整備も行き届いて,いい遊び場所と思うのだが・・・。私は島に行ったときには,公園とか学校の校庭とかはよく見ている。
図 28.油井の公園にあったガジュマル。こんなのが学校の校庭にあったら,授業中にそっと教室を抜け出し,樹に登って海でも眺めていることが多かっただろう。授業をさぼったからといって,テストの成績が良ければ,それでいいのではないか?黙って授業を聴いているのは退屈である。
図 29.モウセンゴケ。宇検村から湯湾岳に上がる道路の斜面に生えている。車で走っていて土手に赤い植物が見えるのですぐにわかる。1 回目に行ったときに発見し,30 年経って 2005 年に行った時も,同じ場所に同じように生えていた。土手がある限り,これからもずっと同じ所に生え続けるだろう。
図 30.湯湾岳展望公園。宇検村と湾がよく見える。2 回目も大学院学生を一人連れて行った。2 回目は,干潟生物の採集という研究目的があった。研究目的で島を訪れる場合には,連れて行く学生はせいぜい一人二人である。それ以上になると,観光旅行にされてしまう。旅行は,研究のためと観光のためでは全く異なる。事務的なことに熱心な人は,すべて観光旅行と思うらしい。そういう時には,「お前も休暇を取って一緒に来たらどうか?」と尋ねることにしている。研究のためであれば,休暇を取る必要はないが(研修届か出張届は必要),事務的なことが好きな同僚がいる場合には,無言の圧力に屈すると野外の研究はできなくなる。分子生物学ばかりでは,日本の科学は衰退する。奄美ブルーも土砂崩れも,野外に出て初めて現状を把握できる。
図 31.奄美ブルーの海岸。宇検村だと思う。尾根にがけ崩れが見える。写真の両側にあるのはクロマツ。花が咲いているかもしれない。裸子植物は花が咲く,イコール花粉を飛散させるということになる。マツの花粉を食べに来る昆虫もいる。手前の赤い葉のついた木は,ヤマハゼあたりか?
図 32.奄美大島の夕暮れ。自然がよく残っているところは夕日も美しい。場所は不明。風がなければ,いつまでも海岸を見ていられる。奄美大島の泥干潟も大変面白い。これから何回か泥干潟(mud tidal-flat)に棲む生物を紹介したい。現代科学の目で自然を見直す努力は怠りなく続けて行きたい。