2024年1月7日(日)
1.はじめに
西表島について調べごとをしていた時に,竹富町ホームページの中に「竹富町史だより」を見つけた。「竹富町史だより」は,竹富町教育委員会の社会文化課で編集されているようだ。小・中学校に関係した記事が多く,初等教育・中等教育に強い関心を持った方が,編集委員に加わっていると見た。
「竹富町史だより」の初版は平成4年(1992)に発行されている。しかし,初版のずっと前に「竹富町史」が編纂されている。もう何十年も前に網取にある東海大学の実習施設に何日間か泊り,海産プランクトンの日周期活動を調べたことがある。その時に図書室(と言っても,蔵書は少なかったように思う。)に「竹富町史」という分厚い冊子が置いてあった(一巻のみ)。
本を手に取ってパラパラとめくると,八重山大津波の被害状況とマラリアの蔓延についての記事が大半を占めていたように記憶している。つらい現実を感傷を交えずに書き続けるのは大変である。これはなかなかの名著だと思った。お世辞ではない。
「竹富町史だより」の方は,竹富町で撮影されたモノクロ写真が掲載されていた。多くの写真は太平洋戦争前後から1970年ごろにかけて撮影されたのだろう。私が初めて八重山諸島に行ったのは1971年春のことであり,そのころに撮影された写真も含まれていた。そして,当時のなつかしい写真がどこで撮影されたか,場所を特定してみたいという半ば本能的な衝動が沸き起こった。
モノクロ写真が撮影されたころから,すでに50年以上経過している。太平洋戦争が始まったころに撮影された写真になれば,80年以上も経っている。その間に人々の生活は大きく変わった。
幸いなことに,google mapの中にはストリート・ビューがある。スクリーン・ショットを使えば,道路沿いの写真をワードの文書に取り込むことができる。個人が撮影して投稿した写真は,著作権がついている場合もあるので,そのような写真は使用していない。
一方,「竹富町史だより」は,広報的な性格の出版物である。そこに掲載された古い写真を営利目的ではなく,研究・教育活動に利用することは,著作権法(という法律があるかは知らない)に抵触することはないだろう。
2.撮影と執筆の基本情報
<写真の撮影と記事の執筆> 三枝誠行(生物多様性研究・教育プロジェクト常任理事)。
3.参考文献
・京浜昆虫同好会(編)1973. 新しい昆虫採集案内(Ⅲ)離島・沖繩採集地案内編。内田老鶴圃新社
・高良鉄夫(1969)琉球の自然と風物:特殊動物を探る。琉球文教図書
図 1.「竹富町史だより」第 15 号(1999)の表紙の写真を転載。1963 年ごろの黒島小学校での昼食風景。竹富町でパン給食が始まったのは 1960 年のこと。カメラに驚いて多くの子供たちが撮影者の方を向いているところが面白い。窓の外から誰か見ているのも面白い。私はこういう写真が大好きだ。
図 2.石垣港から黒島港へ。私は黒島にも波照間島には行ったことがない。自分の研究対象となるのは,アナジャコ類,スナモグリ類,ハサミシャコエビ,オキナワアナジャコ,アナエビ類である。これらの十脚甲殻類は,アナエビを除き,海岸やマングローブ(河口)に広がる泥干潟(mud tidal-flat)に穴を掘って棲んでいる。西表島は標高 300‒400m ほどの山々が連なっている。東側では仲間川,西側では裏内川を中心として,大小さまざまな河川があり,海への出口には河口(estuary)がある。黒島,波照間島,小浜島,竹富島はサンゴ礁原が隆起した島で地形が平坦で川が少なく,河口がない。
図 3.「竹富町史だより」第 2 号(1992)の表紙の写真を転載。1963 年(昭和 38 年)2 月撮影。大富の農家が水牛の引く車に乗ってサトウキビ伐採に行くところ。大富と書いてあったので,google map で撮影場所を探した。牛車の後ろに続く 2 本の小道が今も残り,場所を特定することは難しくない。
図 4.「竹富町史だより」第 2 号(1992)の表紙の写真が撮影された場所。図 3 のモノクロ写真と google map の写真を比較すると,右の小道は 1963 年当時の小道がそのまま残っていることがわかる。写真右端のサトウキビ畑は,1963 年当時からそのまま残る。私はこの道(左の道)をよく通る。
図 5.Google map。「竹富町史だより」第 2 号の写真が撮影された場所(矢印)。撮影されたのは,大富給水塔の道を下ってきて,大富集落に入るところで2 本に分岐する場所だろう。大富給水塔の付近では今でもサトウキビ畑が多い。サトウキビを伐採した後の畑には,キシノウエトカゲ,アオタテハモドキ,タテハモドキが多い。ついでにサキシマハブも多い。アオタテハモドキのオスはきれいだが,すぐ逃げるため接写レンズを使うと疲れ果てる。
図 6.西表島西部にある上原公民館。「竹富町史だより」第 18 号(2000)の表紙を転写。1960 年(昭和 35)の上原集落。ゆっくりと家路に向かう馬車(水牛の車?)。左端の建物は,当時から少し改装しているが,上原公民館である。正面のかやぶきの 2 軒は,今はもう無い。場所特定の決め手になった景観は茅葺の家の後ろにある海。牛車が右に曲がると,20‒30m ほどで浦内や中野から来る道と合流する。
図 7.現在(2013)の上原集落。公民館はだいぶ壁がはげているが,現役として利用されているのだろうか?1963 年当時のかやぶきの 2 軒のところは空き地になっている。茅葺の 2 軒との間にはコンクリートの壁が増設されている。1963 年当時の庭にあったカイヅカイブキ(?)とキリは切られ,シュロが植えられている。公民館の前にはヤエヤマコクタン(?)がある。シュロのすぐ後ろにカンピラ荘(旅館)がある。道の位置が変更されている。
図 8.Google map(上原)。上原公民館の表示がある。私たちがいつも宿泊するのは,琉球大学熱帯生物圏研究センター(琉大熱研)。琉大熱研は,ホテルや旅館ではない。研究・教育目的で建てられた施設である。ホテル,民宿,旅館と同様な気分で行くととんでもないことになる。上原の近くには民宿がたくさんあるので,遊びで行く目的ならそちらを利用した方がよい。干立,祖納,白浜に行くには,県道 215(白浜南風見線)を通る。家族で昆虫採取をするなら,琉大熱研の裏の方の道を裏内川かマーレ川の方に降りて行けば色々捕れる。道に迷わないよう,注意して採集のこと。
図 9.「竹富町史だより」記念すべき第 1 号の表紙を転写。撮影は 1941 年(昭和 16 年)ごろ。1941 年と言えば,太平洋戦争が始まった年でもある。美田良の田んぼは,祖納に住む人たちで管理されていたのだろう。当時は農薬は使われなかっただろうから,稲の成長とともに大量の雑草が生えてきただろう。ご婦人方が持っているのは,雑草を取り除くための器具。西表島には日本住血吸虫(扁形動物門の吸虫綱)が分布しなくてよかった。
図 10.撮影場所の特定(可能性 1)。実はご婦人方が 1963 年に立っていた場所の特定は難しい。美田良に向かって歩くのだから,祖納集落の出口あたりの可能性が高い。そう思って google map(ストリート・ビュー)を見ると,海岸に出る道が候補に挙がった。ただ,ここだと道が右にカーブしている。
図 11.撮影場所の特定(可能性 2)。祖納集落のはずれ。祖納集落の中には可能性があるような地形は見当たらなかった。読者の方々は,まさかこんなところがと思われるかもしれないが,地形から考えるとこの場所の可能性が高い。県道 215 号は,もちろん 1941 年にはなかった。まだ県道 215 号ができる前の道を白浜まで歩いたことがある。道幅は,ご婦人方が立っておられるところ(図 9)ぐらいしかなかったように思う。県道 215 号が作られたのは1972 年以降と思われる。小山を削って道路幅を拡張した。道路が左カーブをして傾斜がある。道の両側にある小山は一続きだったのだろう。
図 12.撮影場所の特定(可能性 1 と可能性 2)。図 9 の写真では,道の右側の斜面が土手になっている気がする。可能性 1 の場所(図 9)は,左側は土手になっていて琉球石灰岩が積み上げられているが,右側は人家の庭になっている気がする。雰囲気としては,可能性 2 の場所が該当する気がする。ご婦人方はみな裸足で歩いて美田良に行ったのだろう。今はコンクリートなので裸足で歩くとやけどをするが,当時は小石の混じった牛車道だった。祖納周辺には昆虫が多い。どこも小道は安全なので,散歩がてら昆虫採集ができる。ただし子供が県道 215 号を横断するときには注意。郵便局や食堂もある。
図 13.美田良にある田んぼ。美田良には一軒農家があって,この農家の人たちが広い田んぼを管理しているのかもしれない。これだけ平たんな地形ならば,トラクター,田植え機,稲刈り機があれば,数人で十分管理できそうな気がする。祖納集落の人たちが田植えや稲刈り手伝っているところは見たことがない。便利な時代になった。昆虫は林縁部ではリュウキュウアサギマダラヤクロセセリが獲れるだろうが,農薬の影響で少ないだろう。
図 14.美田良から白浜に抜ける旧道(左)。現在(2023)は,白浜からと美田良からの両方の入り口に車止めがあるが,歩くならば通行可能。1971 年には,旧道の中間(尾根)から大富林道に抜ける横断道を作っていた。崖に道路を作ったので,雨が降ればすぐがけ崩れが起こっただろう。白浜‒大富間は,地質学的・地形学的に見ても道路を維持するのが難しいと思う。1971 年と 1972 年は,昆虫屋は誰も入っていない。すごいお宝が捕れたと思う。
図 15.美田良から白浜方面に抜ける道。真っ直ぐ行って少し右に上がると長いトンネルがある。現在は,白浜から祖納に来るには,皆この道を通る。左側に入る道は旧道。昔はこの山越えの道を通った。旧道に入る付近の景観(主に樹木)は昔(太平洋戦争前)とほとんど変わっていない。4 月に,雨がしとしと降って,夜にも気温が下がらない晩に,夜中に道路(右側は海岸)をゆっくりと走ると,多くの動物が次から次へと横切ってゆくのがわかる。
図 16.旧道入り口にある看板。「農林水産省補助事業,団体営中山間地域総合整備事業,西表西部地区」という漢字ばかりが並んだ看板。漢字だけ連ねると、ものすごいお役所仕事なのかと思ってしまう。ブッポウソウの研究では,いわゆる「中山間地」をたくさんまわる。高梁市有漢町,巨瀬町,川面町,新見市北房町では,こんな看板をよく見かける。水田は誰がどのようにして管理しているのだろうか?
図 17.美田良から旧道を 1 km 歩いたところにある車止め。ヤエヤマヒメボタルの大群集を見るには,夕方 19 時ごろここに車を止めて歩く。20 分も歩けば,尾根に着く。大富林道に行く道の付近でうろうろしていると,暗くなった土手にポツン・ポツンと小さな蛍の発光が見られる。飛んでいる個体よりも草の上で発光する個体が多いようだ。確か,20 時 15 分前からものすごい数の個体が光りだす。20 時 30 分には元に戻って,あたりは真っ暗闇になる。
図 18.美田良‒白浜間の旧道から見た美田良の田んぼ。西表島では二期作(double cropping)のため,夏前に一作目が終了する。5 月に撮影したと思うが,一回目の稲刈りが近づいている。ただ,二期作とか二毛作というのは,中学の「社会科」の授業で出てくる造語で,現実もそうなっているかは不明。去年は二期作,今年は二毛作などという例があってもおかしくない。お上の言う通りに忠実にやっても,作物が売れなければどうしようもない。
図 19.「竹富町史だより」第 16号(1999)から転写。1960年ごろの白浜集落。家屋は減少。今(2024年)でも,1960年当時と大きくは変わっていない。
図 20.白浜の集落と白浜湾。図 18 の写真は,白浜側の車止めから 5 分ほど登ったところから撮影(矢印)。白浜湾はイシアナジャコ類(Stonogebia spp.)の大産地。個人的には天然記念物にしてもおかしくないと思う。峠のヒメボタルの大集団も圧巻である。ホタルの発光は期間と時間が限られている。
図 21.1970 年ごろの白浜湾。撮影場所は,ヤエヤマヒメボタルの群生地より,白浜側に下ったところ。京浜昆虫同好会(編)「新しい昆虫採集案内(Ⅲ)離島・沖縄採集地案内編」西表島のページから転写。昆虫に関しては,白浜以外の場所で撮影(転写)。モノクロ写真でも,記憶にはカラー写真と同じように残る。なお,コノハチョウは古見岳登山口の入り口付近で私が撮影。なぜか,コノハチョウは西表島には少ない。
図 22.白浜湾。Google earth で,図 21 の「原生林に囲まれた白浜湾(1970 年ごろ)」を撮影した位置は容易に特定できる。しかし,その位置からだとウチパナリ(内離島)が平たく映り,当時とは違った場所から撮影したように見える。いっそのこと,白浜小・中学校の前の路から舟浮方面を撮影した写真の方が,50 年前の感じがよく出るのではないかと思った。小・中学校の前の路から撮影した白浜湾の写真が一つ見つかった。2006 年ぐらいの撮影かと思う。湾の右側には係留してあるボートがひとつ。正面に見える白いものは,舟浮航路の定期船。白浜港に向かっているのだろう。舟浮集落は,白い船の奥を右に行ったところにある。今定期船が通過しているところは舟浮湾。舟浮湾の奥(左側)にはクイラ川が流入している。クイラ川の湾への出口でチャーター船を降りて,尾根に登れば南側の海岸に出られる。以前は若者がクイラ越えをやっていたようだが,最近は不明。
図 23.白浜小学校。以前は小・中学校だったが,最近は小学校になっていると思う。中学生になるとスクールバスで祖納にある西表中学校に通うのだろう。西表島の西部には,中学校が 3 つある。西表中学校,船浦中学校,それに舟浮小・中学校である。定期船で通えるならば,舟浮小・中学校も,白浜小学校や西表中学校へという方法がある。ただ,沖縄県の小・中学校は本州の各県とは少し違った教育ポリシーで運営されているかもしれない。
図 24.白浜湾にある小規模の干潟(図 19 参照)。干潟の両側には,家の土台にした石垣が残っており,複数の家屋の跡がある。太平洋戦争の前には人が住んでいた跡が残る。633ml のビール瓶が 5~6 本転がっていたが,オリオンビールの瓶ではなかったように思う。太平洋戦争直後だったら汚くて入れなかっただろうが,自然の浄化作用により,60 年の時を経て西表島にある多くのマングローブと近い状態になってきた。しかし,泥はまだ完全に還元状態に近く,硫化物の濃度が高いために黒くなっている。強度の富栄養化によく適応した種類,ハサミシャコエビ,イシアナジャコ,スナモグリが多い。
図 25.舟浮に残る海軍壕跡。「竹富町史だより」第 9 号(1996)に掲載されている写真を転載。この壕は今でも残っていて,南側の海岸に出るトンネル。壕を出るとすぐに線路とか別な壕があるので,ここは軍が通路として使っていたのかもしれない。配管はさび付いているが残っている。
図 26.舟浮から見る西表島の山々(雨上がり)。戦時中は舟浮や祖納にも軍隊が駐留し,内離島には砲台も設置されたとのこと。脆い地盤の上に小さな陣地を作っても,巡洋艦どころか駆逐艦の艦砲射撃でも集落もろとも吹っ飛ぶ。大本営には,アメリカ軍の勢いは,もう日本軍では止められないことは,1944 年初めには分かっていたと思う。軍人を含めて日本の人的・物的損害は,1944 年と 1945 年の 2 年間で爆発的に増加したのではなかろうか?
図 27.ゴリラ岩の前にある灯台。ボートに乗り,舟浮の岬を回ると正面にゴリラ岩が見える。ゴリラ岩とは,名前のごとく岬の先端の崖がゴリラの横顔に似ていることからつけられた。ゴリラ岩の手前に灯台(舟浮港灯台)が見える。この辺りはよく海が荒れる。白浜や西表島の西側の海岸沿いを通る船にとってこの灯台の存在は大きかったに違いない。戦時中はどうしたのだろうか? 灯りはずっと消したままになっていたのだろうか?
図 28.崎山湾と網取湾の中間あたり。海が荒れだしているが,舟浮海運の元船長は西部の海についてよく知っているので,ボートには安心して乗っていられる。以前は私の乗ったのと同じボートが網取まで行ってくれたが(木曜日のみ 1 往復),現在は廃止になっている。
図 29.網取湾と廃村になった網取集落。白浜港から元舟浮海運の船長の操縦するボートに乗り,網取や崎山まで 1 時間ぐらいだった気がする。船に乗っている間は,元船長から網取湾の奥に住んでいる爺さんのことを聞かされた。じいさんは週一回海岸沿いを歩いて舟浮まで来るとか・・・。白浜に係留してある自分の船のことで海上保安庁とトラブルを起こし,職員が訪ねて行くと林の中から矢を射かけてくるとか・・・.しかもその矢は十分に殺傷能力を持つとか・・・。船長は,網取湾の奥に私を置いて舟浮に引き上げてしまった。湾のどん詰まりの干潟をイシアナジャコの巣穴を見ながら歩いていたら,犬の吠える声がして本人が出てきた。少し話をしたが,そんなに変な感じの人ではなかった。環境に対する配慮もちゃんとしていたようだ。
クレイジーなのは,ヒナイ川を越えてクーラ橋の近くの海岸に住んでいる浮浪者である。しばらく内離島に住んでいて戻ってきたのだろう。居住スペースを含めて広い範囲がゴミ屋敷になっている。琉球放送がヒーローみたいに面白おかしく取材していたが,国立公園内でそんな生活は認められない。
図 30.1960 年ごろの網取集落。「竹富町史だより」第 17 号(2000 年)より転載。網取は 1971 年に廃村になった。集落は多い時には 50 世帯,人口は 200人を越えたが,廃村時(1971)には 7 戸,29 人だった。29 人の多くは石垣島に移住したようである。今は無医村の小さい集落に住むのは難しい。
図 31.網取小・中学校の昭和 44 年度(1969)終業式と卒業式の記念写真。「竹富町史だより」第 13 号(1998)の表紙を転写。1969 年 3 月末というと,網取集落が廃村になる 2 年前である。小学校・中学校合わせて 13 名が写っている。最後列は,校長先生(左から 2 人目?)と教員 3 名(最後列右から 3名?)と後の 2 名は用務員の方ではなかろうか?日本の教育システムの特徴は,学校運営の中に用務員を置いたことである。現在の事務職の仕事に加えて,子供たちや先生方の日常生活の仕事を補佐していた。現在は学校事業の職務は細分化され,公務員としての教員,事務職員,および非公務員としての県や市町村が個別に契約する個人や団体(見方によっては準公務員)の協力によって運営されていると思う。先生方も用務員の方々も大変だった。
図 32.「竹富町史だより」第 22 号(2002)の表紙を転写。1971 年 3 月 23 日に行われた網取小・中学校の閉校式の後に撮影された。生徒数 10 名。
図 33.祖納岳中腹の鉄塔付近から眺める網取・崎山方面。写真の中央,やや上に見える白い点は舟浮港灯台。 廃村によって網取を出た家族は,多くは石垣島に移住したのだろう。いま石垣島に住んでいるという話を子供たちから直接聞いた。生活が困難で集落を出たくても,自分の意志ではどうにもならないときの苦痛は想像を絶するものがある。もし私が,崎山や網取で生まれたとしたら,そんな苦痛にはとても耐えられなかったに違いない。