生物多様性研究・教育プロジェクト 四季折々の自然の風景と野鳥 2023–No. 5: 破門草事件に想う。

令和5年(2023)4月25日(火)

1.矢田部良吉と松村任三
 植物学者の矢田部良吉は,明治時代の日本の植物学者,詩人である。1851年(嘉永4年)伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)に生まれた。1869年(明治2年) 開成学校教官,1871年米国に渡り,コーネル大学で植物学を学ぶ(理學博士)。帰国後の1877年(明治10年)帝国大學(東京大学)理科大學の初代植物学教授となる。1895年には高等師範学校(のちの東京教育大学)教授。1898年には同校校長の職にあった。公職としては,帝国大學理科大學(小石川)植物園管理,東京盲唖(もうあ)學校長,東京高等女學校長,東京藝術大學長(高等師範学校附属音楽學校長)を歴任し,学識としては東京植物学会会長や東京大學生物學会会長を歴任している。レンゲショウマ科のキレンゲショウマ(Kirengeshoma palmata Yatabe)の命名者である(資料1)。

 矢田部良吉は,公職や学識の経歴を見ると,大変ご立派な履歴の持ち主であることがよくわかる。こういうタイプの性格の人(夢想家)は,組織の実質的な運営に当たる実務家(課長や部長)とは違って,組織の「長」として適性が高いのだろう。逆に,矢田部のように自由奔放な性格の人間は,正直で生まじめな実務家からは,疎んじられることも多かったに違いない。

 矢田部良吉は,錚々(そうそう)たる履歴を持つことになったけれども,1891年(明治24年)帝国大学理科大学を突然「非職」(‘ひしき’または‘ひしょく’)になっている。非職は,地位はそのままで職務だけを免ぜられること。現在では「休職」に該当する処分と思われる。さらにその3年後,1894年(明治27年)に帝国大學理科大學を免官になっている。

 Wikipedia(資料1)によれば,非職処分は帝国大學理科大學学長であった菊池大麓との確執が原因ではないかとの説明である。しかし,いくら帝国大學学長だったとしても,仲が悪いというだけでは,こんな大きな処分は下せない。国家公務員としてふさわしくない言動や行動を行ったとか,長期間にわたり公職義務を果たさないとか,そういう類のこと(証拠は必要)ならば,大なり小なりの処分というのはありうる。私が思うに,矢田部良吉の場合には,表向きには,職務に専念する義務を怠ったというのが,非職の処分を受けた主な理由ではなかろうか?非職は3年間続き,植物学教室の後任(松村任三)が決まったので,1894年に正式に解雇となったのだろう。

 大学の研究室,特に自然科学系の研究室の場合には,学生を指導できる資格を持った者(管理責任者:教授や助教授)が長期に不在になると,研究室の運営に大きな支障が出る。しかし帝国大學理科大學植物学教室の場合には,補佐する助教授が2名も(松村任三と大久保三郎)いたのである。だから,矢田部良吉教授がしばらく研究室に現れなくても,管理運営体制に大きな支障は出ないはずである。

 しかも,まずは本人に理由を説明して改善を促すことなく,いきなり評議員会にかけて非職処分を下すというやり方は,健全な組織運営という視点からは程遠い手順のように思える。私の家の近くにある国立大学でも,4~5年前に似たようにして失職した人たちがいると聞く。学長にはそういう権限があるのだろう。

 実は,私も今までにこの類のトラブルを少なからず経験してきた。それらを振り返ると,矢田部良吉が非職処分となった原因として,最も可能性の高い理由が浮かび上がる。おそらく,当時植物学教室に在籍したどちらかの助教授が,学長(菊池大麓)に意見を具申した(今風に言えば,チクった)ことが発端になったのだろう。

 日本の社会では,どこの大学でも教授と助教授は,見かけは相合傘のように見えるが,裏に回ったら互いに激しい中傷合戦のところが多い。(そういう関係は,今でも変わっていない。)「人の悪口は言うな!」と表で主張する者が,実は裏で一番人の悪口を言っている・・・なんてことは普通にある。陰湿な中傷合戦の苦痛に耐えきれず,人格が壊れてしまったお気の毒な人たちも少なくなかった。もっとも,そういう方々には自分自身にも大きな問題があるかもしれないが・・・。

 問題は,矢田部良吉のことを学長に「チクった」のは,どちらの助教授かということである。大久保三郎ではなかろう。大久保三郎の方は自分の業績が優れず,人のことをとやかく言える立場にはない。

 一方,松村任三の方は大いに怪しい。Wikipedia(資料2)によれば,「松村任三は,植物形態学という新しい学問分野を広めた功績があり,門下生には牧野富太郎がいた。しかし,松村は次第に牧野を憎むようになって行き,講師であった牧野の免職をたびたび画策した。」とあるから,助教授時代に矢田部良吉のことを「チクった」可能性が高い。矢田部をやめさせて自分が早く教授になりたかったのかもしれない。・・・とすれば,ずいぶんと大胆な犯行を計画したものである。

 私は,松村任三という人物は全く知らない。おそらく根は正直で,まじめな人物なのだろう。二宮金次郎を日々拝みながら,少年時代を過ごしたのかもしれない。根は真面目で正直な人間が,なぜ人をだまし,頻繁にパワハラをするような人間になってしまったのだろうか?

 私は,人間は激変する環境に出会うと,脳の思考回路に大きな変更が生じることがある,という持論を持っている。生まれつきの素質もあるだろうが,環境が激変したことで,脳に大きなストレスがかかった結果,人によっては,神経回路(思考回路)に異常(変化)が生じる,つまり善悪の判断や今までの価値観が大きく変わることがあるような気がする。

 松村任三の例でいえば,幼少期からのまじめで正直者という性格を売りにして帝国大學理科大學に入学した。課程を修了し,助手に採用され,やがて助教授に昇進した。助手の時代には,権力に対しては平身低頭の人だったに違いない。(こういう人,日本の社会に多いです。)東京大学出身の保守的な考えをお持ちの方々は,権威には絶対逆らわないと教えられている。私も東京大学の出身者に何度も同じことを言われ,非難された経験があるので,その世界の人間関係については,かなりよくわかっているつもりである。松村任三は,二宮金次郎君の頃から「人の文句は言うな,上司に逆らってはダメなんだ・・・」と,学校の先生や親から常日頃から口うるさく言われ,それに逆らうことなく従順に生きてきたのだろう。青年期は,権威主義の世界で生き抜くのに適した「お坊ちゃん」だったように思われる。

 権威主義の世界で育つ「お坊ちゃん」の中には,権力を握ると,陰険な性格が露骨に表に出てくる者がいる。私の身近にもそういう者は何人かいた。松村任三も教授になったころから,教室運営のこともあって,性格が変わっていったのではないだろうか?

 話は少し飛ぶが,松村任三のような教授昇任人事(密室人事)は,なぜか時間がかかる。どんな議論がなされたかは,議論の場に出くわした経験がないので,私にはわからない。恐らく一部に反対者がいて,その者を説得するのに時間がかかったせいなのだろう。

 ともあれ,矢田部良吉のように,正当な理由なくして長時間職場を離れれば,身近にいる誰かが必ず告げ口をする。それは現在の組織でも変わっていない。告げ口があれば,執行部も動かざるを得ない。証拠を突きつけられれば,どんな立場の人であっても,職務専念義務違反に問われて失職する可能性は高い。矢田部良吉は,松村任三の計略にはめられて失職に追い込まれた,というのが私の見方である。

 しかし,矢田部良吉のすごいところは,帝国大學理科大學の職務を解かれた翌年(1895)に,早々と(東京)高等師範學校教授になっている。教育分野は,植物学ではなく語学の教官として採用された。さらに,1898年には高等師範學校校長になっている。

 矢田部良吉が高等師範學校に雇用されるにあたっては,高等師範學校に在籍した有力者の口添えがあったかもしれない。その者は,矢田部良吉は語学(英語)が堪能であることを知っていて,語学分野なら使えそうだと判断して推薦したと思われる。その有力者が誰だったかは特定できていない。

注1)マキシモビッチや丘の分類学は,種speciesは形態的特徴で見分けられるという確固たる信念に基づいて作られた主観的な(subjective)学問である。植物や昆虫類の分野では,乾燥標本,研究分野(例えば甲殻類学)によっては,液浸標本(模試標本)を作れば検証可能だという希望的観測がいまだに堅持されている。分類学の分野では,権威者の「経験に基づくさじ加減」で新しい種,属,科を記載する方法が,今でも踏襲されている。しかし,分子系統学的解析という検証可能な手法が発達しており,古典的な分類学はいわゆるアマチュアの学問(アマチュアも必要)として,自然科学の先進分野からは距離を置かれるようになっている。

注2)トガクシソウの種名(Podophyllum japonicum)は,伊藤篤太郎が標本をマキシモヴィッチに送って,マキシモヴィッチが鑑定して学名をつけた。伊藤篤太郎が命名した訳ではない。この点は注意していただきたい。和名(domestic name)は,日本人がつける名称であり,誰が呼んだかトガクシソウでトラブルは起きない。日本列島に広く分布する鳥や哺乳類など,各地で呼び方が大きく異なっている。Yatabea japonicaもマキシモヴィッチが命名した学名である。一方,Ranzania japonicaは,伊藤篤太郎が命名した学名。Ranzaniaも江戸時代の本草学者(小野欄山)から取った学名であるが,YatabeaとかItoea(実際にこんな属があるかは知らない)などと比べると,当事者の名称でないだけ中立性は高い。

2.伊藤篤太郎(とくたろう)と破門草事件
 伊藤篤太郎は,帝国大學理科大學(東京大学の前身)教授の伊藤圭介の孫で,父親は本草学者の伊藤謙である。伊藤謙は伊藤圭介の三男で,父親(伊藤圭介)の跡継ぎとして期待された人物だったようだ。伊藤謙は,明治8年(1875)に戸隠山の山中で,今まで知られていなかった植物を採集した。伊藤謙はこの株を伊藤圭介の勤務先だった小石川植物園に移植し,この株は次の年(1876)に花をつけた。さあこれから研究を始めようかという矢先に,伊藤謙は結核を患い,4 年後の1979年に28歳の若さで夭折してしまった。

 夭折した伊藤謙の意思を引き継いだのが,伊藤篤太郎(とくたろう)である。篤太郎は,当時13 才で植物学の英才教育を受け,18才でロシアの植物学者であるカール・ヨハン・マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz)に英文の手紙とともに植物標本を送っている。トガクシソウは,伊藤徳太郎の送った数々の標本(specimens)の中に含まれていたようである。マキシモヴィッチは,それを見つけ,1886年にミヤオソウ属(Podophyllum)の一種(japonicum)として報告した。それがリンネの2名法(2命名法)に基づくトガクシソウの最初の学名(属名と種名を並記)である。

 その後,帝国大學理科大學の教授だった矢田部良吉も1884年(明治17年)に戸隠山でトガクシソウを採集した。矢田部は,伊藤謙と同様に株を石川植物園に植栽した。この株は,2年後の1886年(明治19年)に開花し,翌年(1887)に鑑定を仰ぐため,マキシモヴィッチに標本が送られた。矢田部がこのとき何を考えていたのかは不明であるが,トガクシソウをミヤオソウ属の1種とみなすには,何か違和感があると思っていた可能性がある。だからマキシモヴィッチに標本を送って鑑定を依頼したのだろう。

 ロシアに標本を送った翌年(1888:明治21年),マキシモヴィッチからの回答は,「本種はメギ科の新属と考えられるのでYatabea japonica Maxim. の学名をつけたい。ついては正式な発表をする前にトガクシソウの花の標本(sample)を送られたい。」というものであった。

 矢田部良吉は,マキシモヴィッチからの返事に狂喜したに違いない。ちょうど同じころ(1891)ドイツに留学中であった丘浅次郎(1868–1944)も,カンテンコケムシに新属の一種(Asajirella gelatinosa 1891)の命名者になっている。この時代は,種(species)を越えて,新属を命名するというのは極めて名誉なことだったのかもしれない。しかも,矢田部にせよ丘にせよ,自分の姓を属(genus)の名称にしている。矢田部良吉は,これで自分の名前は永久に残るという「おめでたい妄想」に憑りつかれて舞い上がってしまったのだろう。

 矢田部は,マキシモヴィッチからの返事を伊藤篤太郎に見せ,マキシモヴィッチが記載したPodophyllum japonicumは,属(genus)が変更になってYatabea japonicaという種名になることを伝えたに違いない。属名と種名の変更は,マキシモヴィッチがやったことであり,矢田部が直接主導した訳ではない。矢田部の方は,当時助教授だった大久保三郎を通じて,伊藤篤太郎の説得を試みた。伊藤篤太郎は,植物學教室に出入りを許されていたと言っても,理学博士の学位も持たない在野の植物学者であった。矢田部には,地位を利用すれば,伊藤は自分の言いなりになるという甘い読み(慢心)があった,と私は思う。

 一方,伊藤篤太郎は,マキシモヴィッチからの手紙を見せられて,どう思っただろうか?伊藤は,トガクシソウの学名はマキシモヴィッチが記載したPodophyllum japonicumで全く問題がないと思っていただろう(注2)。ところが,矢田部のもとに来たマキシモヴィッチからの手紙には,ミヤオソウ属の名称はどこにもない。しかも,Yatabeaなどという冗談にも程がある上司の名称になっているではないか。トガクシソウは,伊藤家にとっては家宝と言ってよい貴重な植物である。心中穏やかならぬ気持ちになったに違いない。

 伊藤篤太郎は,矢田部良吉に比べて学歴は芳しくない。帝国大學理科大學にも研究生とか研修員とか,植物学教室の正規の職員ではない身分で出入りを許されていたのだろう。矢田部がこうだと言えば,それに逆らえない立場にあったことは容易に想像できる。

 しかし,伊藤は矢田部の動きに素早く反応した。矢田部に黙って新しい属名(Ranzania)を作り,Ranzania japonicaとしてイギリスのジャーナルに発表した。これに矢田部良吉は激怒し,伊藤篤太郎を植物學教室に出入り禁止(つまり破門)とした。この事件をきっかけに,トガクシソウは別名「破門草」と呼ばれることになった。

 帝国大學理科大學は,権威主義丸出しの閉鎖的社会である(今でも変わっていないだろうが・・・)。上司の意向に逆らって,新しい属を作り,海外のジャーナルにパブリッシュすれば,即刻破門を言い渡されても不思議はない。職場は,自分の都合だけを考えて生きている人の集合体になっていたかもしれない。そうなると伊藤を弁護する人は現れないだろう。

 伊藤篤太郎には,始めからその覚悟(破門)があっただろう。植物学教室の正規の職員ではなったことが,かえって良かったかもしれない。正規の職員であれば,研究室の運営を妨害したという理由で解雇されるか,もし首がつながったとしても陰湿な嫌がらせを受けて,結局退職に追い込まれる事態になったと思われる。

 伊藤篤太郎に話を戻そう。トガクシソウは,伊藤家の大事な家宝であったと考えられる。だからこそ,伊藤篤太郎にあれだけ大胆な行動を起こさせた,と私は想う。

 騒動の原因はマキシモヴィッチにもあるが,一番大きな原因は,矢田部良吉の慢心にあるのではないか。伊藤篤太郎は権力の圧力に屈せず,伊藤家の大事な家宝を守り通したことは称賛に値する。

 分類学の論文を出版するには,それなりの基礎知識が必要である。伊藤にどれぐらいの基礎知識があったか不明だが,矢田部良吉の行動を見ていて,新しい属(genus)として発表できる可能性が高いと判断したのではないか?その意味では,矢田部の知識を「盗んだ」ことになる訳だが,それを差し引いてもYatabeaは絶対に容認できないと思ったのであろう。伊藤は帝国大学を出ていなくても,ケンブリッジ大学に4年間の留学経験がある。論文の出し方ぐらいは十分に理解していたのだろう。留学経験が生きたのだと思う。

 トガクシソウにはRanzaniaという比較的中立的な属名がつけられている。Itoeaとかitoensisとかつけると,矢田部と同じ次元の分類学者になってしまう。Ranzaniaの名は,江戸時代の本草学者小野欄山から取った。YatabeaItoeaに比べて,学名の中立性は高い。矢田部とは一段違った次元にある生物学者と考えてよい。破門されたのは,伊藤の方ではなく,本当は矢田部良吉の方だったのではないか。

<トガクシソウの学名の変遷>
1)Podophyllum japonicum T.Itô ex Maxim 1886.
 1886年に,カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz)が,メギ科ミヤオソウ属Podophyllumの一種として報告した。

2)Yatabea japonicum Maxim.
 マキシモヴィッチが提唱した。トガクシソウの学名として, この名称を記入しても間違いではないと思う。私は今でもアカテガニの学名をSesarma haematocheirとして使っている。私が特に嫌っているのは,属や種の名称に対し,人名を使うことである。AsajirellaとかYatabeaとかいう名称がつくと,それまで順調だった人間関係が一挙に崩壊する危険にさらされることがある。  

3)Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô (1888)
 Ranzaniaは江戸時代の本草学者である小野蘭山に献名されたもの。Yatabeaはよほど嫌だったのだろう。人名をつけると大きなトラブルが起きる。 私も種名にsaigusaiなどとつけられるのは嫌な代わりに(実はそういう名称になっている十脚甲殻類もある),sakaiiなどという種名もまっぴらごめんである。Yatabeaという名称がどれだけ嫌かは,トラブルに関わった当事者(伊藤篤太郎)でないと,すぐには理解できないだろう。

 属や種の名称(ラテン語)に人名を使うと,古典的分類学者はいいかもしれないが,検証を必要とする研究分野(例えば,分子系統学)では,ネガティブな証拠が出されたときに,命名者の威厳を損なう恐れが出てくる。例えば,分子系統解析の結果,カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa Oka, 1891は,実はAsajirellaではなく,別の属に入れる方が良いということになれば,gelatinosaは残るだろうが,Asajirellaの名称は消える。名誉棄損で訴えられる可能性もある。しかし,丘浅次郎といえども,さすがにアサジロウコケムシという和名は遠慮したようだ。一方,アマチュアの昆虫分類では,命名者の名前を関した種名がたくさん残っている(例:オオバヤシトゲヒゲトラカミキリ,イワサキコノハ)。

図1.トガクシソウ(花)。花弁や葉(ピンク色)の構造については,植物図鑑やWikipediaを参照されたい。Wikipedia (トガクシソウ)Qwert1234’s fileから転載。

図2.トガクシソウ(花)。ピンク色の濃い品種。「森と水の郷,秋田。山野の花シリーズ② トガクシショウマ」から転載。
(http://www.forest-akita.jp/data/sanya-hana/02-togakushi/togakushi.html)

資料1>「矢田部良吉」(https://ja.wikipedia.org/wiki/矢田部良吉)
(下記の記事はWikipediaから転載。文章は一部改編。なお,Wikipediaの記事の著者はすべて匿名になっている。匿名だったとしても,多くの記事の内容は客観的な視点で書かれているように思われる。匿名で書けなくなると,権威者しか記事を書けなくなり,古い時代の権威主義がよみがえってくる。記事の正確さや客観性は。読者が判断すればよい。)

 伊藤篤太郎は,帝国大學(東京大学)教授の伊藤圭介の孫で本草学者である。東京大学植物学教室に出入りを許された在野の植物学者である。伊藤篤太郎は,自分の叔父の伊藤謙(注3)が1875年(明治8年)にトガクシソウを戸隠山で採集し,小石川植物園に植栽した標本を、1883年(明治16年)にロシアの植物学者マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz)に送り,マキシモヴィッチは1886年にロシアの学術誌「サンクト・ペテルブルク帝国科学院生物学会雑誌」にPodophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. として,メギ科ミヤオソウ属の一種として発表した。

 東京大学教授だった矢田部良吉も1884年(明治17年)に戸隠山でトガクシソウを採集し,小石川植物園に植栽した。2年後の1886年(明治19年)に開花し,1887年(明治20年)にマキシモヴィッチに標本を送り,鑑定を仰いだところ,翌1888年(明治21年)3月,マキシモヴィッチは「本種はメギ科の新属であると考えられ,Yatabea japonica Maxim. の学名をつけたいが,正式な発表前に花の標本を送ってほしい」と回答した。

 伊藤はこの矢田部の動きを聞き,既に自分が発表したPodophyllum japonicum がミヤオソウ属の一種ではなく新属であることを知り,また,新属名が Yatabea と矢田部に献名される予定であることを知った。伊藤は,叔父が採集し,自分が最初に学名をつけた植物の学名が矢田部に献名されることにあせり,1888年(明治21年)10月に,イギリスの植物学雑誌 Journal of Botany, British and Foreign 誌に,新属 Ranzania T.Itô を提唱し,Podophyllum japonicum T.Itô ex Maxim. (1887) をこの属に移し,新組み合わせ名 Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô (1888) として発表した。

 マキシモヴィッチによる Yatabea japonica Maxim.は,伊藤による発表の後であるため,この学名は無効となり公にならなかった。矢田部はこのことを知って怒り,伊藤篤太郎を植物学教室の出入り禁止処分にした。トガクシソウは俗に「破門草」という隠れた名前がある。

注3) 伊藤篤太郎の叔父は「伊藤謙」となっているが,伊藤圭介の弟子で,圭介の女婿となった「伊藤(中野)延吉」なのか不明。

<資料2>
「植物学者 大久保三郎の生涯」(http://www2.gol.com/users/notomo/biography-okubo-26.html)

 こうした最中,突然の出来事が発生する。東京帝国大学植物学教室をつくりだし,現場をリードしてきた中心的人物である矢田部教授が明治24年(1891)3月31日に突然非職となったのである。その日のことを前出の学生・岡村金太郎が次のように回想している。

「三月の幾日であつたか … 其日は何かあつたと見えて矢田部先生は殆ど昼頃から教室に居なかつたが,やがて夕暮近い頃,常とは違つた緊張した顔で無言のまま部屋へ戻られて間もなく帰宅せられたので,常とは違った様子に何となく自分等も気遣はれたが,何ぞ知らん,其れから間もなく先生は非職ということになって,始めて自分等も其日の光景を追想することであつた」(『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「青長屋:本邦生物学側面史」)。

 矢田部の非職は植物学教室史に思い出として書かれるほどあまりにも突然で,学生たちにも動揺が広がったといわれている。牧野富太郎は「その原因は,菊地大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる」(『牧野富太郎自叙伝』)としている。

 菊地大麓(1855–1917)は,当時帝国大学理科大学学長を務めており、明治31年(1898)には東京帝国大学総長に,明治34年(1901)には文部大臣になった人物だ。東京大学教授となったのは矢田部と同じ明治10年(1877)で,ライバル関係はあっただろう。

 牧野は遠因として「西洋かぶれで,鹿鳴館でダンスに熱中したり,先生が兼職で校長をしていた一橋の高等女学校の教え子を妻君に迎えたり、『国の基』という雑誌に『良人を選ぶには,よろしく理学士か,教育者でなければいかん』と書いて物議を醸したりした。当時の『毎日新聞』には矢田部先生をモデルとした小説が連載され,図まで入っていた」と書いている。牧野は矢田部に植物学教室への出入りを禁止された恨みがあってか矢田部に対して厳しいが,それが直接,非職につながったかどうかは定かではない。けれど,クララに言い寄って嫌われたときのことを思い返すと,矢田部はどこかお騒がせな人物であったことは確かなような気がする。

<資料3>
「伊藤篤太郎(いとうとくたろう)」(https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤篤太郎)

 慶応元年(1866)生まれ(尾張国)。昭和16年(1941)没。日本の植物学者。
 父親は本草学者である伊藤圭介の弟子で,圭介の女婿となった伊藤(中野)延吉である。1872年に東京に出て,祖父圭介のもとで植物学を学び,1884年からイギリスのケンブリッジ大学などに私費留学をした。1887年に帰国後,東京府尋常中学校や愛知県尋常中学校,1894年からは鹿児島高等中学造士館で教職についた。鹿児島時代は,沖縄諸島の植物の収集を行い,後に松村任三と『琉球植物説』(1899)を発表した。1888年にトガクシソウの学名に関わる「破門草事件」が起きている。1896年に造士館が閉鎖になると,愛知県立第一中学校で教職についた。1897年から1898年には祖父圭介を顕彰する「錦窠翁九十賀寿博物会誌」や「理学博士伊藤圭介翁小伝」の編集と執筆を行った。1921年に東北帝国大学に生物学科が新設されるとその講師となった。著書に「大日本植物図彙」などがある。

3.矢田部良吉の休職と解雇は,伊藤篤太郎の破門と関係するか?
伊藤徳太郎が,トガクシソウの新しい学名をイギリスのジャーナル(Journal of Botany, British and Foreign)に発表したのは,帰国(1887)したその翌年(1888年)10月のことである。これに矢田部良が激怒し,伊藤篤太郎を植物學教室に出入り禁止(つまり破門)とした。一方,矢田部良吉に休職処分が下されたのが1891年。破門草事件が勃発してから2年と数か月後に矢田部良吉は,非職に追い込まれている。

 牧野富太郎は「その原因は、菊地大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる」(『牧野富太郎自叙伝』)としている(資料2)。

 矢田部はどこかお騒がせな人物(資料2)だったのだろうが,それ(お騒がせ人物であること)を身近にいる対抗者が,菊地大麓に情報提供した(いわゆる「チクった」)ことが,矢田部に対して休職処分を下すきっかけになったのであろう。それなりの地位がなければ,菊地大麓に意見を具申しても,信じてはもらえなかったはずである。

 伊藤徳太郎と矢田部良吉の関係は,破門草事件で完全に破綻した一方で,伊藤徳太郎と松村任三の関係は良かったように思われる。日頃の矢田部良吉の行いを苦々しく思っていた松村任三が,破門草事件によって矢田部良吉の「悪行」の確固たる証拠をつかみ,それを菊地大麓に報告したのだろう。菊地大麓は,その証拠を持って矢田部良吉に休職処分を下すことができたと思われる。

 伊藤徳太郎は,矢田部良吉に破門されてからしばらく東京にいて,教職(東京府尋常中学校)についていたかもしれない。1894年からは鹿児島高等中学造士館で教職についた。鹿児島時代は,沖縄諸島の植物の収集を行い,後に松村任三と『琉球植物説』(1899)を発表した(資料2)。伊藤は,矢田部良吉の解職のきっかけを作ってくれた松村任三に対するお礼として「琉球植物説」を共同執筆者に入れたのではないか。

 その後,松村任三は,伊藤篤太郎や牧野富太郎に対し,ある理由から次第に嫌悪感を抱くように変わっていったのではないだろうか。

4.「ある理由」とは?
 松村任三と伊藤篤太郎,牧野富太郎との関係は,『琉球植物説』(1899)が刊行された頃までは良好だったと思われる。伊藤篤太郎にとって,松村任三は,矢田部良吉の免職のきっかけを作ってくれた恩人である。だからこそ「琉球植物説」には,伊藤篤太郎に加えて松村任三が共同執筆者として名を連ねているのだろう。

 しかし,西暦1900年を過ぎてから,松村任三と伊藤篤太郎や牧野富太郎の関係は悪化していったのだろう。Wikipedia(資料2)によれば,「松村任三は,植物形態学という新しい学問分野を広めた功績があり,門下生には牧野富太郎がいた。しかし,松村は次第に牧野を憎むようになって行き,講師であった牧野の免職をたびたび画策した。」とある。伊藤篤太郎はすでに帝国大學理科大學(東京)を離れている。残っているのは牧野富太郎講師であった。

 松村任三が牧野富太郎をよく思わなくなった原因は,感情的な要因もあるだろう。しかし,それ以上に伊藤篤太郎や牧野富太郎が関わっている分類学は,植物形態学講座で進める学問としては,古臭さが目立つようになってきたのではないか。植物形態学は,植物細胞の構造,維管束の形態と機能をはじめ,場合によったら葉緑体の種類や光合成の仕組みなどを扱う学問である。(実際に植物形態学講座でどんな研究が行われていたかは,私は知らない。)いずれにしても,植物形態学は,検証可能な学問である。一方,伊藤篤太郎や牧野富太郎が熱心に進めている植物分類学は,検証できない学問である。つまり,研究者の経験に基づいて原理や原則が導かれる。それらに基づいて多くの植物を分けて行く(演繹する)手法である。経験に基づく原理や原則は,宗教における教義とよく似ている。

 植物分類学の分野では(動物分類学も同じ),それぞれの分類群について権威者がいて,各自が独特の分類基準(standard)を持っている。例えば,トガクシソウを鑑定したロシアの植物学者マキシモヴィッチもユーラシア大陸の植物分類学の権威だったのだろう。権威者であるマキシモヴィッチの言うこと(教義)が分類(classification)の原理や原則になる訳だから,新種かどうかの鑑定もマキシモヴィッチを通してしかできないことになる。伊藤篤太郎も牧野富太郎も,マキシモヴィッチと同様な道をたどった。そして1900年を過ぎたころには,伊藤は離れていたからいいとして,牧野講師にお伺いを立てないと,植物の分類ができなくなる事態に陥ったのではないだろうか。

 植物形態学という検証可能な学問を進めようとする松村任三にとって,研究室の学生や松村以外のスタッフが,牧野富太郎に頼って研究を進めて行くような事態になれば,講座の責任者である松村任三は,研究室の運営に大きな危機感を抱くであろう。実際に事態はそういう方向に転んでいったのだろう。放っておけば講座を乗っ取られる。松村は,それに気づいて牧野富太郎を憎むようになり,何度も牧野の免職を画策したのではなかろうか。

 松村任三のようなケースは,現代でも起こりうる。最初は好意で研究室への出入りが許しても,次第に学生に取り入って,自分勝手な挙動を繰り返す者がいる。そうすると研究室がその者(ある意味人気者)を中心に回って行くようになり,それが高じると研究室全体が乗っ取られる恐れが生じる。

 牧野富太郎がそうだったとは思わないが,もし私が松村任三だったら,私も牧野富太郎の免職を画策したであろう。巷では,松村が牧野を憎んだと一方的な記述をしているが,これは個人の感情的な対立とは違った種類のトラブルである。ブッポウソウでも同じことが起きている。芽が大きくならないうちに被害を軽減する厳しい対応が求められる。ウム,松村を批判するつもりが,松村を弁護することになった。

5.参考文献
植物学者大久保三郎の生涯(http://www2.gol.com/users/notomo/biography-okubo-26.html)
矢田部良吉 Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/矢田部良吉)
牧野富太郎(原著)大橋広好・邑田仁・岩槻邦男(編)2008。新牧野日本植物圖鑑。北隆館。
門田裕一監修、永田芳男写真、畔上能力編 2013『山溪ハンディ図鑑2 山に咲く花(増補改訂新版)』山と溪谷社。
佐竹義輔・大井次三郎・北村四郎他編 1982『日本の野生植物 草本Ⅱ 離弁花類』平凡社。
宮誠而写真全集 Vol 7. 滅びゆく者たちの美学:戸隠森林植物園のトガクシソウ(http://kyobokugaku.hippy.jp/bigaku/21,togakusi.pdf)
水澤玲子・黒沢高秀・阪口翔太・山下由美(2023)尾瀬国立公園燧ヶ岳山麓のトガクシソウRanzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itôの訪花昆虫。尾瀬の保護と復元 Vol 35:41–46。
伊藤篤太郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤篤太郎

文責:三枝誠行(生物多様性研究・教育プロジェクト常任理事)

図3.ぴよ吉(置物ではなく実物。ひょっとしたらメスかもしれない。)図4.妙本寺の境内にあるフクロウ(?)の彫刻。図5.妙本寺の境内。

図3.ぴよ吉(置物ではなく実物。ひょっとしたらメスかもしれない。)

図4.妙本寺の境内にあるフクロウ(?)の彫刻。

図5.妙本寺の境内。

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