サンゴ礁とサンゴ礁原プロジェクト No. 9:渡瀬線と渡瀬庄三郎博士

 1868年, ウォーレス(1823~1913)がアジアとオセアニアの動植物相に顕著な違いを見出し,その境界線としてウォーレス線を提唱した。ウォーレス線に触発されて,西アジアからオーストラリア大陸にかけて多くの境界線が提唱された。

図1.トカラ列島(青い枠で囲まれた島々)。 渡瀬庄三郎博士によって悪石島と小宝島の間に渡瀬線が引かれた。島々をつなぐ実線は,鹿児島港と名瀬港(奄美大島)を結ぶ航路(フェリーとしま2)を示す。種子島,屋久島,口永良部島,および薩摩硫黄島と黒島を結ぶ実線は,別会社の航路になる。

 日本では,東京帝国大學理科大學動物学教室の教員であった渡瀬庄三郎博士(1862~1929)は,南西諸島の生物相を研究し,屋久島(北緯30.3度)以北の地域と奄美大島(北緯28.5度)以南の島々では,脊椎動物(哺乳類,鳥類,ハ虫類)と無脊椎動物(昆虫と貝類)の種類構成にギャップがあることを見出した。そして1912年にトカラ列島の悪石島と小宝島の間に,生物地理上の区分(旧北区と東洋区の境)として渡瀬線を提唱した。

 東洋区の生物は,生存に好適な温度が比較的高く,北に行くにつれて生存できる種類が減少するだろう。逆に旧北区の生物は,最適温度が低く,緯度が下がるほど生存できる種類が減少するだろう。種類によって耐性温度には少しずつ違いはあるだろうが,どこかの緯度を境に旧北区と東洋区の生物相が違って見えることはありうる。つまり,移動が難しくなるトカラ列島のところで,旧北区の生物と東洋区の生物は,よく似た分布のパターンになる可能性はある。

 コムギやイネで研究されているように,ある生物種には発祥の地がある(菊池1976)。一度出現すると徐々に周辺に拡散してゆく。拡散の過程で大きく形態が変わる種や亜種もいれば,あまり変化のない種や亜種もいる。それぞれ発祥の地が異なれば,両方の種や亜種の分布の境界が一致する場合もあるだろう。要するに,旧北区や東洋区を起源にしている種が割に多いのかもしれない。温度耐性にある程度のバリエーションはあるだろうが,屋久島・種子島と奄美大島の間に,分布限界を持つ種が多いのかもしれない。

 ハ虫類では,マムシの分布の南限は種子島や屋久島だろう。またハブの北限は,奄美大島である。昆虫では,南から分布を広げているリュウキュウアサギマダラやシロオビアゲハの北限は,たぶん奄美大島である。

 しかし,トカラ列島が分布の境界になっていない生物も多い。例えばツマベニチョウの分布北限は,九州の大隅半島である。またホ乳類ではアマミノクロウサギ,鳥類ではルリカケス,カミキリムシではヨツオビハレギカミキリやフェリエベニボシカミキリ,クワガタムシではアマミミヤマクワガタのように,奄美大島の固有種もたくさん生息している。

 ウォーレス線や渡瀬線のように,世界の生物相を線引きしてそれぞれの地理区の特徴を研究する学問を生物地理学(biogeography)という。生物地理学は19世紀後半から20世紀前半にかけて日本の生物学界を風靡(ふうび)した先端研究分野であった。

 しかし,生物地理学には大きな問題がある。学問の基礎に旧北区とか東洋区というような「原型」概念を置くことである。旧北区とか東洋区などは,本当に実在する地理区なのだろうか?

図2.諏訪之瀬島のほぼ同緯度にある平島(たいらじま)のサンゴ礁。諏訪之瀬島ではサンゴ礁は発達していないが,平島の方は,Google Earthで見る限りは,割によく発達している感じがする。なお,平島の人口は86名(令和3年3月)で,平成22年(81名)からほぼ横ばい状況が続いている。

「原型」概念の一番良い例が,肌の色合いで人種を区別する考え方である。地球上で生活する人種は,白人,黄色人,そして黒人の3種類の人種(subspecies)で構成されるという考え方(概念)は,根強く生き残っていた。

 しかし,ヒトという種(Homo sapiens)の肌色は,非常に多様化している。実際にユーラシア大陸にある多くの国を訪れてみれば,よくわかるだろう。人種的概念では,日本人は黄色人種に分類されるのだろうが,肌色はかなり黒い人から,欧州で見かけるのと全く同じ色の人もたくさんいる。ロシアに行けばさらによく分かる。ロシアは,多系統の人たち(民族)で構成される国家である。異なった言語を話す集団(population)であること(たとえばタタール人とか・・・)や,異なった宗教を持つことで区分されることはあるが,それは現実をより詳細に反映した分類であって,単純化された概念ではない。

 要するに肌色(color)でヒトを3種類に分類するのは,全く現実を反映していないということである。それは肌色以外の形質(morphs)を指標としたところで,やはり3種類には分けられない。多くの実例を無視して,無理やり3種類に単純化する考え方(原理主義)は,社会の中で偏見を産むだろうし,何よりも自然科学の発展を著しく阻害するだろう。

 渡瀬線の話題に戻る。生物の分布を東洋区とか旧北区に区分けする(分類する)こと自体は,自然科学としては問題ないと思う。多くの事実の上に立って,論理的な思考ができていれば,それは認めてやらねばならない。渡瀬線というのは,多くの事例を調べて,そこから考案された仮説(hypothesis)である。渡瀬博士は,景観的に目立つ種類の分布を証拠として,旧北区と東洋区の境に線を引いたのであろう。

 しかし,旧北区と東洋区を仮定するのであれば,当然それらの境界が問題になる(図2)。気候区分の例では,温帯域と亜熱帯域の境界を設けるとすれば,悪石島と小宝島の間というのではなく,トカラ列島全域が移行帯として境界になるだろう(図1)。

 トカラ列島の島々は小さい。島の面積が小さい場合には,大きい島々(奄美大島とか沖縄本島)に比べて,生物相の時系列的変動が大きくなるように思える。例えば,アマミノクロウサギやルリカケスは,昔はトカラ列島全域にすんでいたが,最近絶滅したかもしれない。変動の激しい生物環境の中に,ウォーレスを頭に思い浮かべ,エイ・ヤッとばかりに境界線を引いてしまうのは,単純な思考である。つまり,原理主義の領域に一歩足を踏み入れている。

 結論として,悪石島と小宝島の間に境界線を引くのは,やはり無理がある。移行帯としてトカラ列島を位置づける方が,より自然な感じがする。

 ただ,人々には移行帯などと言うよりも,渡瀬線と言った方がインパクトは大きいのだろう。そのようにして現実を単純化し,生まれた概念は,教育を通じて世の中に広まって行く。原理主義に酔った人々は,バイアスのかかった自身の考え方を,教育を通して社会に広めてゆく。おかしいとわかったときには,取り返しのつかない事態になっていることもある。

 私はトカラ列島には一度も訪れたことはないが,種子島にはアサヒガニを求めて2度ほど行ったことがある(図3)。Google Mapで見ると,島全体の植物相は九州南部とよく似ている気がする。一方,奄美大島には過去に3回ほど行ったことがある。奄美大島まで行くと,動物相(fauna)植物相(flora)は,沖縄方面のそれに近い感じになる。

 昔(1971年)の春に,沖縄本島まで船(琉球海運)で行ったことがある。3月6日昼過ぎだったか,直行便は東京湾の晴海ふ頭から出航した。トカラ列島周辺を南下するのは,次の日(2日目)だったと思う。デッキに出ると,風は冷たく感じられた。トビウオの群れが盛んに船の前方から飛び出していたことを覚えている。奄美大島の周辺を通過するのは,2日目の夜間だったと思うが,デッキの風はだんだん生暖かくなるのを感じた。3日目の午前中に伊江島が見え,沖縄本島周辺に来たときには,暖かい風が吹いていた。気温は,トカラ列島のあたりから上昇していったのではないかと思う。しかし,どこで大きく変化したかの線引きは難しい(図1)。

図3.アサヒガニ(Ranina ranina)。体長(上下方向の長さ)は,腹部を入れると20cmになる。平成30年(2018)10月22日,鹿児島県南種子町の漁協で購入(一匹3,000円ぐらいだったか・・・)。体の大きさの割には食べるところ(筋肉とか中腸線(いわゆる「カニミソ」))は少ない。種子島では,「アサヒガニご飯」というのがあった。アサヒガニは,水深10~50mの砂地の海底に生息し,インド太平洋地域の暖帯に広く分布する。日本列島では,紀伊半島から沖縄本島あたりに浅海に分布。九州南部(宮崎県と鹿児島県の沿岸)からトカラ列島にかけては,個体数が多いと思われる。現在は,アサヒガニを見たくなったら,高知県の池ノ浦漁協に頼んで新鮮な個体を購入している。アサヒガニの分布も,渡瀬線とは全く関係しない。

 渡瀬庄三郎博士は,生物地理学だけではなく,キンギョの尾びれの発生,ホタルやホタルイカ発光器の研究を行っている。後半生の仕事は,生物の進化を紹介しているように思える。1908年から1911年までの著作(動物学雑誌)にはハックスレー,ヘッケル,そしてダーウィンの名前が並んでいるが,ラマルクの名前は表れていない。渡瀬博士とほぼ同じ年齢で,ワイスマンの影響を強く受けた石川千代松博士が東京帝国大學農科大學に在籍していたので,ラマルクの(悪い)評判は聞いていたに違いない。

 渡瀬博士は,先輩の箕作佳吉(みつくりかきち)博士や飯島魁(いいじまいさお)博士の覚えめでたき人だったようだ。渡瀬博士は,ラマルクをどう思っていたかわからない。いずれにせよ,うっかりラマルクを弁護し,わざわざ自分の立場を悪くするようなことはできなかったのだろう。(私見を付け加えれば,ラマルクが考えた生物進化説は,決して間違ってはいなかったと思う。獲得形質の遺伝にせよ,当時に比べて意味は変化しているが,現代生物学の中では,益々現実性が増しつつあるのではないか?)

 Wikipediaによれば,渡瀬庄三郎博士は1886年に米国ジョンズ・ホプキンズ大学のウィリアム・キース・ブルックス(William Keith Brooks)博士のもとに留学し,理學博士号を取得した。そして1890年よりクラーク大学において助手(Assistant Professor)として頭足類の複眼の形態学的研究を行い,1910年に帰国するまでシカゴ大学で教授として教鞭をとった・・・。とあるから,アメリカ側も事情はよく察していたのかも知れない。

 不遜ながら,私には渡瀬庄三郎博士の考え方はよく理解できる。自分が渡瀬博士と同じように,帝国大學に入学していたら,渡瀬博士と同じようなことに興味を持ち,同じような道を歩んだに違いない。そしてアメリカにも留学しただろう。アメリカのインテリは,渡瀬博士のような人はよく理解する。箕作博士や飯島博士も,その辺はよく理解していたはずである。日本の帝国海軍も,当時多くの軍人がアメリカに留学しているようだ。日本という国は,ドイツで学ぶよりも, 敵国のアメリカに学んでより強くなった感じがする。

 エーと,渡瀬庄三郎博士の考え方はよく理解できると書いたが,やっぱり違うかもしれない。私は,小さいころから人に怒られてばかりいた。今でもあちこちでよく叱られる。たとえば渡瀬線のことで,渡瀬博士がご存命のころに「渡瀬線について自分なりに調べてみたが,実在性については怪しいのではないか・・・」などと発言したら,渡瀬教の信奉者の方々や権威の方々からからひどく叱られ,東京動物學會(現在の日本動物学会)では活動できなくなっていたかもしれない。あちこちで悪い評判も立つに違いない。

 余談であるが,こういう事態に至ってしまった場合には,我慢し続けると陰湿ないじめが続く。いじめを恐れずに,さっさと縁を切ってしまうのがよい。我慢した結果,人間がちょっとおかしくなったと思われる方々を何人も見てきた。縁を切ったばかりの頃は,陰ですごい悪口が飛び交うだろうが,しばらく死んだふりをすれば治まる。しかし,元に戻るのは無理。

 怒られるというのは,できの悪い小僧(今で言うクソガキ)だったということである。その点,渡瀬博士は,おそらく幼少のころから優れた学童だったに違いない。すでにそのあたりで,私のような凡人(うぬ!それ以下かもしれない・・・)と,秀才である渡瀬博士が分かれた感じがする。

<参考文献>

  • 菊池俊英 1976. 人間の生物学。理工学社。
  • 黒江修一 1996. トカラ列島中之島の動物資料採集記録。鹿児島県立博物館研究報告15: 61-67.
  • 小島奎三・林匡夫1969. 原色日本昆虫生態図鑑‒I,カミキリ編。保育社。
  • 京浜昆虫同好会(編) 1973. 新しい昆虫採集案内(Ⅲ)‒離島・沖縄採集地案内編。内田老鶴圃新社。
  • 八杉竜一 1969. 進化論の歴史。岩波新書。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です